「モスクワ講和条約」の版間の差分

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フィンランド国民はこれらのあまりにも過酷な講和条件に衝撃を受けた。戦時中に失った土地よりも講和によって失った土地が多いように見え(実際その通りである)、フィンランドの重要な拠点がいくつも失われたためである。例えば、最も人口が密集しているフィンランドの南側の大部分は[[サイマー運河]]を通して他国と輸送連絡を行っていたが、フィンランド湾につながるヴィボルグでこの経路が切断されてしまった。また、譲渡した土地の南側はフィンランドの工業力の心臓部であった。割譲した土地のうちフィンランド南東部に位置するカレリアはフィンランド文化の中心地であり発祥地であると考えられていた。冬戦争以前は、ソ連領カレリアでのソビエト流の統治と、日常的に行われていた[[スターリニスト]]による暴虐的な行いはフィンランド人にとって悲しみの種であったが、講和後はフィンランド領であった西側のカレリアさえ失ってしまった。これはまもなく、もはやカレリアを取り戻す必要はないのではないかという[[カレリア問題]]を引き起こすこととなる。
 
イギリス・フランスでは、フィンランドを口実として、スウェーデンの鉄鉱石、フィンランドのニッケルおよびそれらのドイツへの輸送路を遮断してしまう為に、ノルウェー北部に地上軍を送る計画があったが、ノルウェーとスウェーデンはこれを拒否していた。フランスは、フィンランドが公に軍事支援を要求するのであれば、パイロット付きで爆撃機を提供してもよいとまでしていたが、フィンランドが講和してしまったので、ダラディエ政権はハシゴを外された形となり、議会で追され、フィンランドの講和から1週間後の3月20日に総辞職した。
 
冬戦争終結直後、フィンランドは、ドイツにもソ連にも中立を維持する為のスウェーデン、ノルウェーからなる軍事ブロックの結成を試みたが、ソ連とドイツの反対で実現しなかった。1940年夏に、バルト三国がソビエト共和国化されてソビエト連邦に併合され、西ヨーロッパでは、ドイツの電撃戦によりフランスが降伏し、イギリスは本土防衛の為に[[バトル・オブ・ブリテン|英本土航空戦]]を戦っているという状況下では、フィンランドに残っている選択肢は、それほどあるわけではなかった。そのような状況のもとドイツと秘密協定を結び、やがて1941年6月ドイツのソ連侵攻とともに、ソ連との継続戦争に突入していく。