「シャルル3世 (ブルボン公)」の版間の差分
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== 生涯 ==
シャルルは武勇に秀でており、[[1515年]]の
[[1521年]]に妻シュザンヌが死去すると、フランソワ1世の母[[ルイーズ・ド・サヴォワ]]はシュザンヌがシャルルに遺贈したブルボン公の所領の相続権を主張した。ルイーズはブルボン公[[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の娘[[マルグリット・ド・ブルボン (1438-1483)|マルグリット]]と[[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[フィリッポ2世・ディ・サヴォイア|フィリッポ2世]]の娘で、血統上は優位の相続権を有した。シャルルに対し、ルイーズは自身との結婚による相続権問題の解決を提案したが、シャルルはこれを断わった。フランソワ1世が母に代わって所領を没収したことから、憤激したシャルルは王を見限って、当時フランスと[[イタリア戦争]]を戦っていた[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に接近し、[[アンドリアン・デ・クロワ]]を介して[[1523年]]に密約を交わした。カール5世はその報償として、姉[[レオノール・デ・アウストリア|エレオノーレ]]との結婚をシャルルに約束した<ref>[[フランチェスコ・グイチャルディーニ|グイチャルディーニ]]著、[[川本英明]]訳『イタリア史VII』([[太陽出版]]、2005年)、P185</ref>(のちにエレオノーレはフランソワ1世と結婚している)。シャルルは
カール5世はシャルルにドイツ人とスペイン人の混成軍の指揮を委ね、シャルルは[[1525年]]の[[パヴィアの戦い]]ではフランソワ1世を捕虜にするなどの活躍を見せた。フランソワ1世はカール5世が王位を兼ねる[[スペイン]]に護送され、シャルルもそれを追う形でスペインへ向かったが、スペイン貴族からは主君を裏切った卑劣漢と見なされた<ref>グイッチァルディーニ著、川本英明訳『イタリア史VIII』(太陽出版、2006年)、P108</ref>。
フランソワ1世は[[1526年]]にカール5世との間で[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]を結んで釈放されたが、帰国すると条約の不履行を宣言して翌[[1527年]]に戦争を再開した。カール5世はフランスと結んだ[[教皇]][[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]への報復のため、[[ローマ]]へシャルルを指揮官とする軍勢を侵攻させた。同年5月6日の教皇軍との戦闘において、シャルルは教皇軍を敗走させ、教皇は[[サンタンジェロ城]]に逃げ込んだ。シャルルの軍勢はローマを包囲し、シャルル自ら陣頭に立って指揮を執っていたが、梯子に上っているところを狙撃されて落命した([[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]は自伝でこの狙撃をやったのは自分だと認めている<ref>{{Cite book|和書|author=古賀弘人・訳|year=1993|title=チェッリーニ自伝・上|publisher=岩波文庫|pages=P.
シャルル3世の死によって、初代ブルボン公[[ルイ1世 (ブルボン公)|ルイ1世]]の長男[[ピエール1世 (ブルボン公)|ピエール1世]]の系統であるブルボン家の本流は断絶した。そのため、ルイ1世の四男
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:しやるる3}}
[[Category:ブルボン公]]
[[Category:シャテルロー公]]
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[[Category:1490年生]]
[[Category:1527年没]]
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