「イギリス領東アフリカ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m Botによる: Bot作業依頼 「各年に廃止された国家・領域」カテゴリの改名に伴う修正
→‎ケニア植民地の成立以降: 脚注説、出典追加
31行目:
 
== ケニア植民地の成立以降 ==
[[アフリカ戦線 (第一次世界大戦)|第一次世界大戦のアフリカ戦線の戦い]]を経て、[[1920年]]には保護領から本国直轄の'''{{仮リンク|ケニア植民地|en|Kenya Colony}}'''となった<ref>{{Cite web |author= |date=1920-07-23 |url=https://gazettes.africa/archive/ke/1920/ke-government-gazette-dated-1920-07-23-no-723.pdf |title=Kenya (Annexation) Order in Council,1920 (ケニア(併合)勅令)|work=Gazettes.Africa |publisher=Law.Africa |accessdate=2021-03-08}}</ref>。[[中央州 (ケニア)|中央州]]一帯には「白人高地」として白人経営による[[コーヒー]]や[[茶]]の農園が広がり、1930年代には白人の数は3万人に達した。後に、高原の土地を占有する白人農園は、元来の土地所有権を主張する[[キクユ族]]による[[マウマウ団の乱]]などさまざまな[[民族主義]]運動の標的と化す。
 
一方[[1896年]]以来、金融、商業、手工業などを行う[[インド系移民と在外インド人|インドの移民]]がケニアに到来し都市部の経済を動かした。さらにウガンダ鉄道建設のために大勢のインド人がケニアとウガンダに渡ってきた。人種別の隔離がなされ、都市での居住地制限や高原地帯へのインド人入植制限が行われたが、インド人は数で白人を圧倒した。1921年段階でのケニアの推定人口は2,376,000人で、うち9651人はヨーロッパ人、22,822人はインド人、10,102人はアラブ人だった。最大都市はモンバサで人口は32,000人だった。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==