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翌建安9年([[204年]])春、袁尚は袁譚を攻撃したが、曹操がその隙を衝いて、審配の守る鄴を包囲した。同年7月に袁尚は鄴救援に引き返してきたが、散々に撃破されてしまった。さらに曹操への降伏も拒否されたため、中山へ逃走した。袁尚に見捨てられた鄴も翌月に陥落し、審配は処刑された。
 
袁尚は中山でも袁譚に撃破され、[[幽州]]の袁煕を頼って、その管轄地の故安に落ち延びた。しかし、袁煕軍の[[焦触]]・[[張南]]に裏切られ、袁煕とともに[[烏桓]]の大人([[単于]])楼班を頼って、[[遼西]]に逃走した。建安12年(207年)、遼西に進軍してきた曹操を、袁煕・袁尚は烏桓王[[トウ頓|蹋頓]](楼班の[[族兄]])らと柳城で迎撃した([[白狼山の戦い]])。しかしまたしても敗れ、最後は[[遼東]]の[[公孫康]]を頼って落ち延びた。
 
曹操を恐れた公孫康は、袁煕・袁尚を斬って曹操への手土産にしようと企み、2人を偽って歓迎した。これに袁煕が疑いを抱いたが、袁尚は公孫康の軍を奪い取ろうと考えていたため、そのまま公孫康の下に向かった。公孫康は、到着した袁煕・袁尚を取り押さえて斬首し、2人の首級を曹操のもとに送り届けた。袁尚の亡骸が鄴に運ばれると、かつて袁尚が自陣営に招請しようとした[[田疇]]によって弔われた(詳しくは田疇の項参照)。