「カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア」の版間の差分

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反乱軍の活躍もあってロンバルディアを占領し、更に共和派の[[ダニエーレ・マニン|マニン]]率いる[[サン・マルコ共和国|ヴェネト共和国]]が王党派の説得を受けてピエモンテへの合併による「北イタリア王国」の成立を決めた後も、参謀本部の不備とアルベルトの懐疑心は変わらなかった。彼は若き日のガリバルディも加わっていた共和派の反乱軍兵士に賛辞を送る代わりに、あからさまに侮蔑的な態度で接している。また後退を強いられたオーストリア軍が[[ヨーゼフ・ラデツキー|ラデツキー]]将軍の下で体勢を立て直す間、アルベルトは北部諸地域の王党派を支援して共和派を攻撃する事に費やした。
 
[[1848年]]、増援を得たオーストリア軍3万3000名とサルデーニャ軍2万2000名が衝突({{仮リンク|[[クストツァの戦い (1848年)|en|Battle of Custoza (1848)|label=クストツァの戦い}}]])し、オーストリア側は4600名の死者を出しつつも相手方を破った。サルデーニャ側は8000名の損害を出してミラノに撤退した。反乱軍は徹底抗戦の意思を固めていたが、此処にいたっても反乱軍を信用せず、それどころかオーストリアとの内通や王政廃止の謀議を疑っていたアルベルトは自らミラノを捨ててトリノに引き返してしまった。
 
=== 退位 ===