ダーンリー卿の家系は{{仮リンク|ステュアート・オブ・ダーンリー家|en|Stewart of Darnley}}と呼ばれ、男系ではステュアート朝以前に後の王家と分かれており、[[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]の祖父である第5代王室執事長{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (第5代王室執事長)|label=ジェームズ・ステュアート|en|James Stewart, 5th High Steward of Scotland}}の弟の子孫であった。ダーンリー卿は生得の権利として有力な王位継承権を持っていたが、これは父方の曾祖母エリザベス・ハミルトン(Elizabeth Hamilton)が[[ジェームズ2世 (スコットランド王)|ジェームズ2世]]の外孫であったことによる。
ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることはなかった。最初の摂政はメアリーの庶出の兄で王の母方の伯父に当たる初代[[マリ伯爵]][[ジェームズ・ステュアート (初代マリ伯爵)|ジェームズ・ステュアート]]であったが、[[1570年]]にメアリーの支持者によって[[暗殺]]された。次いで、ダーンリー卿の父で王の父方の祖父に当たる{{仮リンク|レノックス伯|en|Earl of Lennox}}[[マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯)|マシュー・ステュアート]]が摂政となったが、この祖父も[[1571年]]に国内の紛争で殺害された。マリ伯の母方の伯父で3人目の摂政となった[[マー伯爵]][[ジョン・アースキン (第18代マー伯)|ジョン・アースキン]]も[[1572年]]に死去し、王の祖母[[マーガレット・ダグラス]]の従弟に当たる[[モートン伯爵]][[ジェイムズ・ダグラス (第4代モートン伯)|ジェイムズ・ダグラス]]が最後に摂政となった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=237-239}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=360}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=41-42}}。
1570年にマリ伯が暗殺された後頃から、ジェームズ6世の家庭教師として{{仮リンク|ジョージ・ブキャナン|en|George Buchanan}}と{{仮リンク|ピーター・ヤング (チューター)|en|Peter Young (tutor)|label=ピーター・ヤング}}がついている。政治に携わり、[[1578年]]頃までジェームズ6世のもとにいたと言われるブキャナンは、ヨーロッパで広まっていた王権神授説でなく、国王は人民から選ばれた存在とみなして、人民を王権の由来とする考えに基づく制限された世俗的王権論を教えようとしたとも言われている。ジェームズ6世はブキャナンから語学・天文学・数学・歴史・修辞学などを、ヤングからは歴史・神話・地理・医学などを教わり、ギリシャ・ローマの学問を重視した[[人文主義者|人文主義]]的教育を受けて、語学に堪能で博学を誇る君主へと成長した。ただしブキャナンに対する感情は複雑で、英才教育に感謝しながらも短気で教育は厳しい上、よく体罰を与えることもあり母を憎むあまり罪を吹き込むブキャナンを恐れていた(思想も世俗的王権論ではなく王権神授説を支持)。一方、自分に同情的で優しいヤングの方は気に入り、後に結婚のため[[デンマーク]]に派遣する使者に選んでいる{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=240-241}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=36-41,45,56-58,63-64}}。
同年、13歳のジェームズ6世は[[フランス王国|フランス]]帰りのオウビーニュイ卿[[エズメ・ステュワート (初代レノックス公)|エズメ・ステュアート]](父方の従叔父に当たり、後に[[レノックス公爵]]に叙爵)に魅了され、彼を寵愛した(ジェームズ6世は男色家=ホモセクシュアルで知られている)。邪魔になったモートン伯は、レノックス公の謀略でダーンリー卿殺害に関与したとして[[1581年]]1月に処刑されたが、ジェームズ6世の[[寵臣]]政治はスコットランド貴族達の反発を招き、翌[[1582年]]8月に初代ガウリ伯{{仮リンク|ウィリアム・リヴァン (初代ガウリ伯)|en|William Ruthven, 1st Earl of Gowrie|label=ウィリアム・リヴァン}}の計略によりジェームズ6世は誘拐、{{仮リンク|リヴァン城|en|Ruthven Castle}}に軟禁された({{仮リンク|リヴァンの襲撃|en|Raid of Ruthven}})。レノックス公も逮捕され12月にフランスへ逃亡した{{#tag:ref|レノックス公はフランスのスパイとされていて、ジェームズ6世の母方の従叔父に当たる[[ギーズ公]][[アンリ1世 (ギーズ公)|アンリ1世]]への手紙で[[スペイン]]および[[教皇|ローマ教皇]]の支持と資金提供でイングランド侵略を図る計画を書き送り、スコットランド・フランスでイングランドを挟み撃ちにする計画が出来上がっていた。それを察知したエリザベス1世はスコットランド貴族にレノックス公失脚を命じたため、政変にはイングランドも一枚噛んでいた{{sfn|石井美樹子|2009|p=418-419}}。|group=注釈}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=298}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=242-245}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=42-43}}。ガウリ伯は[[プロテスタント]]貴族で、ジェームズ6世に対するフランスや[[カトリック教会|カトリック]]の影響、母のイングランドからの帰還を妨げようとしたらしい<!--<ref name=":0" />-->。
==== 親政 ====
翌[[1583年]]6月、別の側近の[[アラン伯爵 (スコットランド貴族)|アラン伯爵]]{{仮リンク|ジェイムズ・ステュアート (アラン伯)|en|James Stewart, Earl of Arran|label=ジェイムズ・ステュアート}}や{{仮リンク|パトリック・グレイ (第6代グレイ卿)|en|Patrick Gray, 6th Lord Gray|label=パトリック・グレイ}}らの支援でリヴァン城からの脱走に成功したジェームズ6世は、[[1584年]]にガウリ伯を処刑し、直接統治を行うこととした(アラン伯も[[1585年]]に政争に敗れ{{仮リンク|ジョン・メイトランド (初代サールズテーンのメイトランド卿)|en|John Maitland, 1st Lord Maitland of Thirlestane|label=ジョン・メイトランド}}やグレイがジェームズ6世の側近に収まる){{sfn|森護|1988|p=298-299}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=245-247}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=44}}。
親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は[[長老派教会|長老派]]の影響が強く、[[アンドリュー・メルヴィル]]らは「聖職者の任命は国王ではなく[[長老制|長老会議]]によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制([[監督制]])を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、[[1592年]]には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、[[1598年]]には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の[[司教]]に{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|label=スコットランド議会|en|Parliament of Scotland}}議員同様の立法活動を許すこととした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=299}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230-231}}。
[[1600年]]、処刑したガウリ伯の遺児である第3代ガウリ伯{{仮リンク|ジョン・リヴァン (第3代ガウリ伯)|en|John Ruthven, 3rd Earl of Gowrie|label=ジョン・リヴァン}}と{{仮リンク|アレクサンダー・リヴァン|en|Alexander Ruthven}}兄弟の屋敷を訪問、そこで監禁されたが家臣達に救出され、ガウリ伯兄弟はジェームズ6世と共に監禁された小姓に刺殺された。この事件については謎が多く、ガウリ伯に多額の借金を負っていたジェームズ6世が帳消しを狙った陰謀とも、政敵排除に一芝居打ったとも言われ真相ははっきりしていない{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=256-259}}。同年の[[クリスマス]]にイングランドのエセックス伯から送られた手紙で[[クーデター]]をけしかけられているが、彼が翌[[1601年]]に無謀な反乱を起こして処刑されると、政敵の{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]を文通相手に切り替え、彼の助言でエリザベス1世亡き後のイングランド王位に希望を持ち、将来のイングランド統治に役立つ知識を得て文通を続けていった{{sfn|塚田富治|2001|p=33-34}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=535,550-551}}。
=== イングランド王位継承 ===
==== イングランド王即位 ====
[[ファイル:James I, VI by John de Critz, c.1606..png|thumb|317x317px|[[1606年]]頃のジェームズ]]
1603年3月に入るとエリザベス1世が重体となり、セシルは女王崩御に備え、[[3月19日]]にジェームズ6世に彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて、王位継承準備を整えた(エリザベス1世がジェームズ6世への王位継承を認めていたかどうかは不明)。5日後の3月24日にエリザベス1世は崩御し、ジェームズ6世は4月に[[エディンバラ]]を出発、[[ロンドン]]で熱狂的な歓迎を受け7月25日に戴冠、[[同君連合]]でイングランド王ジェームズ1世となった。平穏な王位継承を迎えるための政治工作に尽力したセシルには翌[[1604年]]に[[ソールズベリー伯爵]]を叙爵、[[1608年]]に{{仮リンク|大蔵卿 (イギリス)|label=大蔵卿|en|Lord High Treasurer}}に任命して報い、ソールズベリー伯の従兄の[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]も[[ナイト]]叙爵と特命の学識顧問官任命で助言者に迎え入れた{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=114}}{{sfn|森護|1988|p=302-303}}{{sfn|塚田富治|1996|p=91-92}}{{sfn|青木道彦|2000|p=241-242}}{{sfn|塚田富治|2001|p=35-37}}。
特に{{仮リンク|ジョージ・ヘリオット|en|George Heriot}}、{{仮リンク|トマス・ハミルトン (初代ハディントン伯爵)|en|Thomas Hamilton, 1st Earl of Haddington|label=トマス・ハミルトン}}、[[アーガイル公爵|アーガイル伯爵]]{{仮リンク|アーチボルド・キャンベル (第7代アーガイル伯爵)|en|Archibald Campbell, 7th Earl of Argyll|label=アーチボルド・キャンベル}}が権勢を振るい、ヘリオットはイングランドで浪費して金に困ったスコットランド貴族やジェームズ1世に土地と引き換えに金を工面し、スコットランド最大の地主に成り上がり{{仮リンク|ジョージ・ヘリオット学校|en|George Heriot's School}}設立など慈善事業に捧げた。ハミルトンはガウリ伯兄弟の遺体を裁判にかけ大逆罪を下したことで一族共々出世し{{仮リンク|ハディントン伯爵|en|Earl of Haddington}}も与えられた。一方アーガイル伯は対立していた{{仮リンク|グレゴール氏族|en|Clan Gregor|label=マクレガー氏族}}を大勢惨殺したり、他の[[スコットランドの氏族|氏族]]にも強引にイングランド文明を押し付けたりしていた{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=260-268}}。
スコットランドでは宗教問題が未解決で、ジェームズ1世がイングランドに移ってからも監督制を支持する国王と長老制を堅持する長老派教会との対立が続いていた。ジェームズ1世は[[1606年]]にアンドリュー・メルヴィルを追放、1618年には[[パース (スコットランド)|パース]]で監督制を強化した{{仮リンク|パース5箇条|en|Five Articles of Perth}}を押し付けたが、後に一部緩和してそれ以上宗教に介入しなかった。またこの間の[[1617年]]にジェームズ1世は1度スコットランドへ帰国しているが、イングランド人廷臣を大勢連れて贅沢三昧と狩猟に明け暮れたためスコットランド人に不評だった{{sfn|浜林正夫|1959|p=86-87}}{{sfn|森護|1988|p=308-309}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=268-271}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=67,74}}。
[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|200px|thumb|{{FIAV|historical|}}ユニオン・フラッグ(1606年版)]][[ファイル:James_I_of_England_by_Daniel_Mytens.jpg|thumb|289x289px|[[1621年]]頃のジェームズ]]
1604年3月から1607年12月まで断続的に開かれた、3会期に渡る議会でジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一の必要性を訴え、国王側近で両国の統合検討委員会に入っていたベーコンも合同に賛成した。しかし庶民院議員は大勢がスコットランドの蔑視からスコットランド人のイングランド流入と両国の交易に抵抗して合同に反対、[[コモン・ロー]]法律家もイングランド法とスコットランド法融合によるコモン・ローの変質を恐れて反対、ベーコンの反論も効果なく合同は棚上げになってしまった。ただ、ベーコンの活動に注目した国王は1607年に彼を{{仮リンク|法務次官 (イギリス)|label=法務次官|en|Solicitor General for England and Wales}}に任命している{{sfn|塚田富治|1996|p=121-124}}{{sfn|木村俊道|2003|145-148,155-158}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=7}}。
一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に1604年[[10月20日]]の布告で「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドの[[イングランドの国旗|セント・ジョージ・クロス]]とスコットランドの[[スコットランドの国旗|セント・アンドリュー・クロス]]を重ね合せた[[ユニオン・フラッグ]]を1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
また、イングランド国王就任時から[[アイルランド王国|アイルランド]]は[[植民地]]となっており、先代からの反乱({{仮リンク|アイルランド九年戦争|en|Nine Years' War (Ireland)}})の首謀者・ティロン伯[[ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)|ヒュー・オニール]]はイングランドに降伏していた(1607年に逃亡)。それを踏まえてジェームズ1世は1608年から[[1610年]]まで、アイルランド北部[[アルスター]]地方へ[[ジェントリ]]を通じてイングランド人・スコットランド人の入植を行った。[[ロンドンデリー]]はそうした入植で出来た植民地都市である。植民地アイルランドの統一政策も行い、入植でカトリックの先住民から土地を奪いプロテスタントの入植者へ入れ替え、カトリックを公職に就かせず、カトリックの有力貴族の家系で幼少の[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](後の[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド公]])を引き取りプロテスタントに養育、[[1613年]]の[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]庶民院の選挙介入も行い、プロテスタント議員がカトリック議員より人数を上回るようにした。特にベーコンは植民政策に対しての著作を残している(『随筆集』第33編「植民について」より){{sfn|ベンジャミン・ファリントン|松川七郎|中村恒矩|1968|p=63-64}}{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=127}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=771,773}}{{sfn|山本正|2002|p=127-129,137,147}}{{sfn|成田成寿|2014|p=208-213}}。
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとはソールズベリー伯の主導で1604年の{{仮リンク|ロンドン条約 (1604年)|label=ロンドン条約|en|Treaty of London (1604)}}で和解した。これには、スペインとフランスの調停者としての役割がジェームズ1世に期待されたからで、国王も期待に応え調停者であることをアピールした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|岩井淳|2015|p=27-28}}。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていた[[オスマン帝国]]に対しては[[キリスト教徒]]としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118}}{{sfn|竹田いさみ|2011|p=115}}。
派閥抗争は議会解散後も続き、ペンブルック伯・アボット・{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}{{仮リンク|ラルフ・ウィンウッド|en|Ralph Winwood}}らプロテスタント派はノーサンプトン伯と甥の[[サフォーク伯]][[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|トマス・ハワード]]と[[サマセット公|サマセット伯]][[ロバート・カー (初代サマセット伯)|ロバート・カー]]らカトリック派から国王を引き離すため、[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]](後の[[バッキンガム公]])を国王に近付けさせた。国王から寵愛されたヴィリアーズは期待に応え1618年にサフォーク伯を失脚させ、サマセット伯も1615年に政略結婚に絡んだ殺人でベーコンに告発され失脚、プロテスタント派の勝利でヴィリアーズが台頭(1616年にバッキンガム子爵、1617年に伯爵、1623年に公爵に叙爵){{sfn|塚田富治|1996|p=188}}、{{仮リンク|ミドルセックス伯爵|en|Earl of Middlesex}}{{仮リンク|ライオネル・クランフィールド (初代ミドルセックス伯爵)|label=ライオネル・クランフィールド|en|Lionel Cranfield, 1st Earl of Middlesex}}が財政改革に乗り出したが、赤字を解消出来ず1621年に議会召集せざるを得なかった{{sfn|今井宏|1990|p=162-163}}{{sfn|塚田富治|2001|p=116-117}}{{sfn|木村俊道|2003|231-235}}。
時期は前後して、司法でコモン・ロー法律家で裁判官[[エドワード・コーク]]とも対立する。コモン・ロー信奉者のコークは1606年に{{仮リンク|民事高等裁判所首席裁判官|en|Chief Justice of the Common Pleas}}に就任してからコモン・ローを扱う裁判所を擁護、[[エクイティ]]の裁判所や王権と権限や管轄争いを引き起こした。ジェームズ1世はベーコンと共に国王大権を擁護して対抗しつつもコークとの和解の道を探り、1613年に彼を{{仮リンク|イングランド・ウェールズ首席裁判官|label=王座裁判所首席裁判官|en|Lord Chief Justice of England and Wales}}へ転任させたが、コークが一向に翻意せずコモン・ロー裁判所を拠点にして国王大権と対立し続けたため、1616年にコークを罷免した。一方、コークとの争いで一貫して国王を理論で擁護したベーコンを[[法務長官 (イギリス)|法務長官]](1613年)、枢密顧問官、[[国璽尚書]](1617年)、[[大法官]](1618年)に昇進させ、同年に[[ヴェルラム男爵]]、1621年にはセント・オールバンズ子爵に叙した{{sfn|今井宏|1990|p=158}}{{sfn|塚田富治|1996|p=131-137,149-158,168-169,186-187}}{{sfn|木村俊道|2003|193-198}}{{sfn|石井栄一|2016|p=62-68}}。
議会では30万ポンドの課税を認められたが、使途は戦争に限ると条件を付けられ、外交にも議会の意見を受け取るという譲歩を余儀なくされた。とはいえ議会との関係はこれまでより良好で、ジェームズ1世にとってむしろ好戦的なチャールズとバッキンガム公こそが脅威となっていた。バッキンガム公は反戦派のミドルセックス伯を議会に弾劾させ失脚、スペイン包囲網形成のためフランスの同盟を計画、フランスと交渉して王女[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|アンリエット・マリー]]をチャールズと結婚させることを約束した。しかし内容はイングランド国内のカトリック教徒に寛容を与えるなどカトリックに譲歩した物だったため、当初反スペインだった議会に人気があったバッキンガム公は不信を抱かれた。同年末に成立したフランス軍事同盟に基づいてイングランドは遠征軍を派遣したが、あくまで戦争に反対するジェームズ1世は軍にスペイン領通過を禁止、それを知ったフランスが自国のイングランド軍上陸を禁止、行き場を失った軍はオランダで疫病にかかり自滅、英仏同盟は不安定になっていった。他の出来事としては、議会の反独占運動の成果として{{仮リンク|専売条例|en|Statute of Monopolies}}の成立が挙げられる{{sfn|浜林正夫|1959|p=72}}{{sfn|今井宏|1990|p=168-171}}{{sfn|塚田富治|2001|p=68-69}}{{sfn|岩井淳|2015|p=40-41}}。
ただし最近の研究では、ジェームズ1世の時代はシェイクスピアなど文化的発展の特色がみられた時代で、そのような文化的サロンなどを活発に開き、文化に貢献したと再評価もされている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Denmark|title=ann of denmark|accessdate=2020.06.03|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
* Lianda de Lisleの ''"After Elizabeth"'' によれば、7歳までまともに歩けなかったという。フィクションではあるがJean Plaidyの ''"The Murder in the Tower"'' でも、5歳まで歩いたことがなかったとされている(常に家臣が抱きかかえて運んだ)。チャールズ1世も歩き出すのが非常に遅かったため、何らかの遺伝病の可能性もある。
* 「ブリテンの[[ソロモン]]王」の異名をとったが、それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に、父親がダーンリーではなく母の秘書の{{仮リンク|デイヴィッド・リッチオ|en|David Rizzio}}だろう(デイヴィッド=ソロモンの父[[ダビデ]]のこと)という悪口でもあった。この発言者はフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]と言われている。また、「最も賢明で愚かな王」という発言もアンリ4世、あるいは彼の側近であるシュリー公{{仮リンク|マクシミリアン・ド・ベテュヌ (シュリー公)|en|Maximilien de Béthune, Duke of Sully|label=マクシミリアン・ド・ベテュヌ}}の物とされる{{sfn|森護|1988|p=303}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=230}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=2}}。
* 1611年に[[オックスフォード大学]]{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|en|St John's College, Oxford|label=セント・ジョンズ・カレッジ}}学寮長の選挙が行われた際、{{仮リンク|オックスフォード大学学長|en|List of Chancellors of the University of Oxford|label=学長}}のエレズミア男爵[[トマス・エジャートン (初代ブラックリー子爵)|トマス・エジャートン]]から候補者の[[ウィリアム・ロード]]をカルヴァン派が訴えているという話を伝えられたが、選挙実施を承認した結果ロードが当選した。それからは大学改革に邁進するロードを後押ししたり、猟官運動に励む彼を引き立て出世させたりしたが、内心はロードの急進的思想([[高教会派]])を懸念していたという。ロードはジェームズ1世からはあまり信頼されなかったがバッキンガム公の後援を得て、次の王チャールズ1世の下で更に出世することになる{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=410}}{{sfn|塚田富治|2001|p=88-92}}。
* 1601年[[4月15日]]にスコーン・ロッジの[[フリーメイソン]]に加入している<ref name="Grand Lodge">{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/biography/james_vi/james_vi.html |title= James VI of Scotland |accessdate= 2014-9-25 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。