「PC-9800シリーズ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
説明不足や表現を修正
80行目:
[[東芝]]は1983年から[[ラップトップパソコン]]の開発に取り組んでいた。1985年にヨーロッパで発売された[[T1100]]やその後継機は成功を収め、1986年春から欧米諸国で発売された[[T3100]]は[[バイト (雑誌)|バイト]]誌から「キング・オブ・ラップトップ」と賞賛された。1986年10月にはT3100を日本市場向けに改良した[[J-3100シリーズ|J-3100]]を発売し、特に狭いオフィスが多い日本では企業を中心に好評を得た<ref>{{Cite book|和書|title=東芝の奇襲で日本電気が受けた深傷|date=1990-04-25|publisher=[[光文社]]|last=小林|first=紀興|isbn=4-334-01250-7|page=168}}</ref>。T3100が発売されるまで、NECはラップトップ型パソコンを時期尚早と見るなど開発に本腰を入れていなかった。このため、NECはT3100の開発を察知して慌ててラップトップ型パソコンのPC-98LTを開発した。PC-98LTはJ-3100と同月に発売されたものの、従来機との互換性が乏しく、既存のPC-98用ソフトが動作しなかったため、十分な成功を収めるには至らなかった。小型化を実現するにはGDCなどの周辺チップを集約したチップセットを開発する必要があったが、3年前からラップトップパソコンの開発に本格的に取り組んでいた東芝にはすぐに追随することができなかった<ref>{{Cite book|和書|last=関口|first=和一|title=パソコン革命の旗手たち|year=2000|publisher=日本経済新聞社|ISBN=4-532-16331-5|pages=210-212|chapter=8. 挑戦者たち : 東芝ショック}}</ref>。
 
1987年3月、[[セイコーエプソン]]は最初のPC-98互換パソコン(以下、98互換機)となる[[EPSON PCシリーズ|PC-286シリーズ]]を発表した。NECはこの98互換機を調査し、使用されている[[Basic Input/Output System|BIOS]]がNECの著作権を侵害しているとして訴訟を起こした。1987年4月、セイコーエプソンはPC-286 Model 1から4までの4機種の発売を中止し、別の開発チームにより[[クリーンルーム設計]]で開発されたBIOSを採用するPC-286 Model 0を発売した。このモデルはROM BASIC(本体[[Read only memory|ROM]]に収録されたN88-BASIC(86))が内蔵されておらず、NECはこれを「PC-98との互換性に乏しい」と結論付けた。当時はROM BASICの需要が依然多く、1990年時点でもNECが発行していたソフトカタログのうち約40%がROM BASICに依存していた<ref name="Hattori_19910121" />。同年11月、セイコーエプソンは裁判の継続が市場に悪いイメージを抱かれると考え、NECに和解金(金額は非公表)を支払い、告訴の対象になった4機種は今後も発売しないという内容で和解した。著作権侵害の有無については決着が付かないまま問題は終息した<ref name="matsuo_1988" />。
 
PC-286 Model 0はCPUに10MHz駆動の80286を使用し、同じCPUを8MHzで駆動していたNECの主力機PC-9801VXよりも25%速かった。1987年6月、NECはCPUクロック周波数を10MHzに引き上げたPC-9801VX01/21/41をリリースした。NECは自社のオペレーティングシステム(ディスクバージョンのN88-BASIC(86)やMS-DOS)に、NEC製以外のマシンで起動しないようにするBIOS署名チェックを追加した。これは通称「EPSONチェック」とも呼ばれた。1987年9月、セイコーエプソンはPC-286VとPC-286U、および、BASICインタープリタを追加するための『BASICサポートROM』をリリースした。また、EPSONチェックを解除するためのパッチプログラム『ソフトウェア・インストレーション・プログラム (SIP)』をバンドルした。新機種はリーズナブルな価格と互換性の良さが評価され、好評を博した<ref name="matsuo_1988" />。セイコーエプソンの98互換機は1988年に20万台の売上を記録し、日本のパソコン市場に新たな勢力が誕生することになった<ref>{{Cite web|url=https://japan.zdnet.com/article/20357346/6/|title=業界タイムマシン19XX--Trip11:セイコーエプソン vs. NEC PC-98互換機騒動|last=大河原|first=克行|date=2007-09-28|website=[[ZDNet]] Japan|access-date=2019-03-30}}</ref>。
 
1987年11月、セイコーエプソンはNECに先行してPC-98と完全な互換性を持つラップトップパソコンPC-286Lをリリース発表した。ラップトップ型の需要はもはや無視できる規模ではなく、PC-98最大手のディーラーである[[大塚商会]]もPC-286Lで初めて98互換機をラインナップ販売リストに加えた<ref name="Hattori_1989" />。1988年3月、NECはデスクトップ型PC-9801との完全互換を実現したラップトップ型パソコンPC-9801LV21を発売した。完全互換性と小型化の両立には新規に開発された3種類のチップセットが重要な役割を果たし、これらはPC-9801RAなどの主力デスクトップ機にも使用された<ref name="ASCII_198809">{{Cite journal|和書|year=1988|title=PRODUCT SHOWCASE : 低価格386マシン&ソフトも一新 PC-9801RAシリーズ|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=12|issue=9|pages=189-193|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|issn=0386-5428}}</ref>。しかし、青液晶を採用したPC-9801LVは視認性が悪く、バックライト付き白黒液晶を採用したPC-286Lに技術面でも後塵を拝することになった。視認性の問題はJ-3100同様の橙色プラズマディスプレイを採用したPC-9801LS(1988年11月)と、バックライト付き白黒液晶を搭載したPC-9801LV22(1989年1月)で解決された<ref name="Hattori_1989" />。
 
1989年7月、東芝は軽量でバッテリー駆動可能な真のラップトップパソコンJ-3100SSに「みんなこれを、目指してきた」「ブックコンピュータ」というキャッチコピーと「DynaBook」というブランドを添え、宣伝に[[鈴木亜久里]]を起用して大々的に発売し、これは1年間で17万台を販売する大ヒットとなった。この登場に危機感を覚えたNECは、同年11月、同様のコンセプトを持つPC-9801Nに「ノートパソコン」というキャッチコピーと「[[98NOTE]]」というブランドを付け、宣伝に[[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]を起用して発売した。DynaBookの出だしは順調だったが、1990年には98NOTEの累計販売数がDynaBookを上回った<ref name="Nikkei_19930315">{{Cite journal|和書|date=1993-03-15|title=特集 : 追う98、追われる98|journal=日経パソコン|pages=130–145|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>。
105行目:
1992年10月末、NECはWindows 3.0を標準搭載した[[PC-9821シリーズ|PC-9821]](愛称は98MULTI)を発表した。1993年1月より、PC-98の主力デスクトップ機は3つのラインに拡張された。[[CD-ROMドライブ]]などホビー向けに必要な機能を一式含んでいる「98MULTi」に加え、Windowsの利用に適した性能を持つ「98MATE」、MS-DOSの利用を主目的とした低価格の「98FELLOW」が発売された。PC-98は対応する日本語アプリケーションが多く、依然日本のユーザーには人気があった<ref name="nikkeipc_19930621" />。
 
1993年から1995年にかけて、NECは業界標準規格を採用しつつ製造コストの削減を図った。PC-98は72ピン[[SIMM]]、3.5インチ1.44MBフロッピーディスク、[[Advanced Technology Attachment|IDE]]ドライブ、640×480ピクセルのDOS画面モード、2D GUIアクセラレーション[[Graphics Processing Unit|GPU]]、{{仮リンク|Windows Sound System|en|Windows Sound System}}、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]、[[PCカード|PCMCIA]]に対応していった<ref name="news_pc98nx">{{Cite web|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970926/98NOW5.HTM|title=小高輝真の「いまどきの98」 : PC-9800からPC98-NXへ|last=小高|first=輝真|date=1997-09-26|website=Impress PC Watch|access-date=2019-03-16}}</ref>。また、一部のマザーボードの製造を[[エリートグループコンピューター・システムズ|ECS]]やGVCなどの台湾系企業に委託した<ref>{{Cite journal|和書|last=木瀬|first=裕次|date=1995-03-13|title=第2特集 : 浸透する台湾パソコン(前編)|journal=日経パソコン|pages=182–187|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>。[[ファイル:PC98 and domestic PC shipments in Japan 1990-1998.svg|サムネイル|PC-98と日本国内PC本体出荷台数(1990年から1998年。1997年以降はPC98-NXを含む)]]PC-98の販売数そのものは順調に増大していたが、PC/AT互換機の販売はこれを上回る勢いで拡大し、PC-98は次第にシェアを落としていった。これは、パーソナルコンピュータとWindowsの爆発的な普及により、従来とのハードウェア・ソフトウェア互換性を必要とするユーザーが相対的に少数派となったためである<ref group="注">1991年に電通リサーチが行ったアンケート調査によると、パソコンの選択基準で最も重視されたのが「互換性」であった。</ref><ref name="NPC_19920203">{{Cite journal|和書|date=1992-02-03|title=NPCレポート なぜ広がらない98互換機ビジネス 「幻の98互換機」があった|journal=日経パソコン|pages=110-115|publisher=[[日経BP]]}}</ref>。この時点ではPC-98もWindows機であることには変わりなく、実績のあるブランドだったことからそれなりの知名度もあり、トップシェアを争うだけの勢力は維持していた。1997年時点での日本国内シェアは3割とも5割弱とも言われる<ref>SOFTBANK BOOKS、PC-98パワーアップ道場、ISBN 9784797305777 p.248</ref>。しかし、CPU・チップセット・ビデオチップ・拡張バスなど、PCを構成する各種の要素技術が急激に高度化し、それらのほとんどがPC/AT互換アーキテクチャを前提としていたことから、PC-98に採用する上でさまざまな困難に直面することとなった。[[Windows 95]]の移植においては、NECはアメリカのマイクロソフト本社に技術者を約20人常駐させてPC-98版の開発を進めていた<ref>{{Cite journal|和書|last=本間|first=健司|date=1996-02-12|title=NECはWin 95で98らしさをだせたか―ほとんどなくなった98とDOS/Vの違い|journal=日経パソコン|pages=160–164|publisher=[[日経BP]]|issn=0287-9506}}</ref>。Windows 3.1および95の時代には[[FMRシリーズ]] / [[FM TOWNS]]など他社独自アーキテクチャ機も存在していたのに対し、Windows 98の時代にはPC-98以外はほぼPC/AT互換アーキテクチャに収斂したため、NECにはWindowsや各種ドライバの移植コストが重くのしかかることとなった。このようにして、独自アーキテクチャの維持に次第に限界が見えてきた。
 
1997年10月、NECはPC/AT互換機といえる<ref group="注">ただしNECは当初そのようには呼んでいなかった。その後、プリンタ等一部NEC製の周辺機器のカタログで「PC-98NXシリーズを含むPC/AT互換機」という表現が見られた。なお、DOS/Vの動作は保証していない(FC98-NXの一部機種でPC DOS 2000の動作を保証しているのみである)。</ref>PC97ハードウェアデザインガイド準拠マシンの[[PC98-NXシリーズ]]を発表し<ref name="news_pc98nx" />、一般市場におけるPC-98は事実上その使命を終えた。
219行目:
前述のように、PC-98のソフトウェア資産は圧倒的であり、NEC自身が投入したものも含め、別アーキテクチャのコンピュータは苦戦を強いられた。
 
[[セイコーエプソン]]は98互換機である「[[EPSON PCシリーズ]]」を開発。その後、NECは自社開発の[[DISK-BASIC]]やMS-DOSに自社製ハードウェアであるか確認する処理を付け加えるなどした(通称:EPSONチェック)が、セイコーエプソンではそれを解除するパッチ(SIP)を供給{{Refnest|group="注"|一般的にソフトウェアの改竄が違法行為とされるのは、あくまで複製を行う場合の話である。SIPは既にインストール済みのプログラム(運用ディスクやHDD)を書き換えるものであって、複製を行うものではないため、著作権上は問題が無いと考えられている<ref>{{Cite web|url=https://www.mc-law.jp/kigyohomu/19023/|title=【模倣の善/悪|自由市場の競争|PC-9800vsEPSON互換機・SOTECvsiMac】|publisher=みずほ中央法律事務所|date=2014-12-30|accessdate=2021-03-03}}</ref>。}}し、サードパーティー機器の互換性検証を行い情報提供したり、PC-98より高性能低価格の機種をラインナップするなどの展開を行い、ユーザーの支持を集め[[市場占有率|シェア]]を伸ばしていった<ref name="kimura"/>。その後、AT互換機が普及するにつれて劣勢となってきた頃<ref name="NPC_19920203">{{Cite journal|和書|date=1992-02-03|title=NPCレポート なぜ広がらない98互換機ビジネス 「幻の98互換機」があった|journal=日経パソコン|pages=110-115|publisher=[[日経BP]]}}</ref>、NECはこのエプソンチェックを取り除くようになった
 
エプソン以外にも、[[トムキャットコンピュータ]]と[[プロサイド]]が[[TOMCAT PC-3/X|PC/ATとPC-9800のデュアル互換機]]を販売したり、[[シャープ]]の[[MZ-2861]]がソフトウェアエミュレーションによりPC-9800シリーズ用のソフトを動作させるなどの試みもあったが、定着には至らなかった。日経パソコン誌はその原因として、「互換機」というイメージの悪さではなく、ターゲットを明確にして魅力ある製品を企画できなかったことと、販売力が弱かったことを指摘した<ref name="NPC_19920203" />。
 
産業用コンピュータとしては組み込み用を中心とする機種が存在し、ワコム(現ロムウィン)社98BASEシリーズやエルミック・ウェスコム社iNHERITORシリーズなどが発売された。これらはNECによるPC-9821シリーズやFC-9800/9821シリーズを含むPC-9800シリーズ全体の打ち切り後も生産が続けられたため、既存ハード・ソフトウェア資産の継承が必要な工場・[[信号保安|鉄道用信号機器]]向けなどを中心に一定の生産実績を残している{{要出典|date=2021年2月}}。