「費穆 (北魏)」の版間の差分

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[[528年]]([[武泰 (北魏)|武泰]]元年)、爾朱栄が洛陽に向かうと、霊太后は費穆を召し出し、小平に駐屯させた。4月、爾朱栄が[[孝荘帝]]を推戴すると、費穆は河梁を守ることができず、爾朱栄に降った。費穆は爾朱栄の旧知の人物ではなかったため、爾朱栄はその帰順を喜んだ。費穆は洛陽の百官たちが爾朱栄を軽侮していると告げ、大いに誅罰を行って、あらためて親党を樹立すべきだと煽った。爾朱栄はかれの意見を容れて、[[河陰の変]]が起こった。同年([[建義 (北魏)|建義]]元年)同月、爾朱栄が洛陽に入ると、費穆は中軍将軍・吏部尚書となり、魯県開国侯に封じられ、さらに夏州大中正を領した。
 
5月、南朝梁の将軍の[[曹義宗]]が[[荊州]]に進攻すると、費穆は使持節・征南将軍・都督南征諸軍事・大都督となり、荊州を救援した。同年([[永安 (北魏)|永安]]元年)10月、費穆はひそかに軍を進め、南朝梁の軍の不意を突いて撃破し、曹義宗を生け捕りにして洛陽に送った。功績により[[衛将軍]]に転じ、趙平郡開国公に封を進めた。使持節に転じ、[[侍中]]・[[車騎将軍]]・仮[[儀同三司]]・前鋒大都督を加えられた。[[529年]](永安2年)、費穆は大将軍[[元天穆]]とともに[[邢杲]]の反乱を討って、鎮圧した。5月、[[元顥]]が南朝梁の後援を受けて北進してくると、孝荘帝は[[河内郡 (河南省)|河内郡]]に避難し、元顥は洛陽に入った。費穆は元天穆とともに[[山東]]の地を平定すると、軍を返して元顥を攻撃した。費穆は先駆けて[[虎牢関|虎牢]]を包囲し、攻め落とす寸前まできたが、元天穆が[[黄河]]を北に渡ってしまったため、後援もなく孤立し、やむなく元顥に降った。元顥は費穆を召し入れると、河陰の変の責任を追して非難した。6月己丑、引き出されて殺害された。享年は53。孝荘帝が洛陽に帰還すると、侍中・[[司徒|司徒公]]の位を追贈された。[[諡]]は武宣といった。
 
== 子女 ==