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====徳字諡号====
「徳」という字は殺害されたり辺地や流刑地で没したりした天皇に、怨霊封じのため贈られた美称であるという説はわれ、小説家の[[井沢元彦]]などが主張している<ref>井沢元彦「[[逆説の日本史]] 古代怨霊編 - 聖徳太子の称号の謎」[[小学館]] 1994年 ISBN 4-09-379413-8</ref>が、選定理由でそのような意図があると言明されたことはない
 
元々は、4代[[懿徳天皇]]、16代[[仁徳天皇]]のように、本当に徳があった(と考えられた)天皇に贈られた{{efn|ただし、懿徳天皇は[[欠史八代]]の一人であるため詳細は不明である。}}{{efn|ただし、仁徳天皇は、その男系の血筋は25代[[武烈天皇]]で断絶したため、怨霊説で解釈することも可能ではある。}}
実際の歴史上で天皇の諡号に「徳」字が使われたのは、[[孝謙天皇]]が譲位した際に、[[淳仁天皇]]より「宝字孝謙称徳皇帝」の尊号が贈られたことを嚆矢とする。重祚後の孝謙を「称徳」と呼ぶのはこれに由来する。天皇の漢風諡号はその後、奈良時代から平安時代にかけて一括選定されたため、[[懿徳天皇]]・[[仁徳天皇]]・[[孝徳天皇]]に諡号が贈られたのはこの時代である。仁徳天皇・孝徳天皇については事績が伝わっているが、懿徳天皇についてはほとんど事績が伝わっていない。いずれも諡号が選定された理由は不明である。[[森鷗外]]は『[[帝謚考]]』において複数の出典となりうる漢籍を上げているが、特定は行っていない。55代[[文徳天皇]]についても諡号が選定された理由は明確ではなく、森鷗外も選定理由を考えることはできないとしている。
 
[[飛鳥時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけて、[[天智天皇|皇太子]]に実権を握られ都に置き去りにされ崩御した36代[[孝徳天皇|孝徳]]、その子孫が断絶した48代[[孝謙天皇|称徳]]{{efn|ただし、称徳天皇の「称徳」の諡号は生前に贈られた尊号「宝字孝謙称徳皇帝」に基づいており、明らかに怨霊とは関係が無い。}}、[[藤原良房]]と対立したために内裏に住むことができなかった55代[[文徳天皇|文徳]]、流刑先で崩御した75代[[崇徳天皇|崇徳]]、82代[[後鳥羽天皇|顕徳]](後に後鳥羽と改めた)、84代[[順徳天皇|順徳]]、[[平家]]滅亡の際に入水した81代[[安徳天皇|安徳]]が該当する。また、崇徳、顕徳、順徳、安徳の4人の天皇をまとめて「四徳」と呼ぶことがある。なお井沢説によると、徳の諡字が怨霊封じとして贈られた最初の例は(天皇ではないが)[[聖徳太子]]とされる。太子は即位することなく薨御し、息子の[[山背大兄王]]ら一族は[[蘇我入鹿]]に攻められて滅亡した。
[[保元の乱]]で流罪となった75代[[崇徳天皇]]は当初淡路院という追号で呼ばれていた。しかし、安元3年7月29日にはこれを改め「崇徳院」の追号が贈られた。崇徳を提案したのは[[藤原永範]]であり、『[[通典]]』を出典としている{{sfn|森鷗外|1919|p=181}}。『[[百錬抄]]』によれば、81代[[安徳天皇]]が[[壇ノ浦の戦い]]で崩御した際には、非命に倒れた天皇に対し、「或人」が怨霊となってしまった前例を踏まえて、慈仁を施すべきであるということで「安徳」の諡号が贈られた。撰進を行ったのは[[九条兼実]]であり{{sfn|森鷗外|1919|p=187-188}}、「或人」は崇徳を指すものと見られる{{sfn|森鷗外|1919|p=181-182}}。延応元年(1239年)、承久の乱で敗れた82代[[後鳥羽天皇]]は[[隠岐島]]に流されたため「隠岐院」と呼ばれていたが<ref>『国史大辞典』([[吉川弘文館]])[[上横手雅敬]]執筆項</ref>、崩御後には[[菅原為長]]の選進により「崇徳院」の例に習って「顕徳院」の諡号が贈られた{{sfn|森鷗外|1919|p=188-189}}。しかし仁治3年([[1242年]])7月8日には、「後鳥羽院」の追号が贈られた。宣旨では「顕徳院」の号が廃されたわけではなく、重ねて追号が贈られた理由は明らかになっていない{{sfn|森鷗外|1919|p=191-192}}。建長元年([[1249年]])7月20日には、佐渡院と呼ばれていた[[順徳天皇]]に順徳院と諡された。
 
ただし、怨霊封じのために徳の字を贈る習慣が続くと、逆に「徳の字を贈られた天皇は、怨霊となる可能性のある悪天皇だ」という認識になり、「顕徳」の諡号を贈られた天皇の霊が立腹し祟りをなした(と考えられた)事件が起きたため、改めて「[[後鳥羽天皇|後鳥羽]]」の追号を贈り直す事となった。これにより怨霊封じとして徳の字を贈る習慣は終わった{{efn|ただし、文明2年([[1470年]])12月27日には[[後花園天皇|後花園法皇]]が崩御し、追号の選定にあたったが、当初「後文徳院」の追号が贈られた。しかし「諡号に『後』の字を加える(加後号)例はない」という[[一条兼良]]の反対により追号を改めることとなり、結果として「後花園院」の追号が贈られている。この際「後文徳」をした[[勧修寺教秀]]や[[三条公敦]]といった公家らは、「文道再興の聖徳」「曜徳」「文徳の治世は盛んであった」など称賛する語として用いている<ref>『[[親長卿記]]』文明3年2月別記([[内外書籍]]『史料大成. 続編 第39』、24-26p)</ref>}}。{{efn|[[南朝 (日本)|南朝]]の96代[[後醍醐天皇]]には、当時対立していた[[北朝 (日本)|北朝]]から「元徳院」の諡号を贈る案が出されたことがある(実際には本人の遺諡により後醍醐と追号された)}}
 
====光字諡号====