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| price = 88,500円
| discontinued =
| unitssold = 17,000台(1977年10月まで)<ref name="NEC_2001_649">{{Cite book|和書|author=日本電気社史編纂室|title=日本電気株式会社百年史|date=2001-12-25|year=|publisher=日本電気|pagepages=651649-661}}</ref>
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== 歴史 ==
[[1970年代]]、NECの半導体部門は[[インテル]]互換プロセッサを含むいくつかの[[マイクロプロセッサ]]を開発し、1976年にはインテルと[[セカンドソース]]契約を結んだ。しかし、部門はそれらの販売に苦労していた。日本ではマイクロプロセッサに興味を持っている技術者はほとんど見つからず、NECの営業マンは大きな利益をもたらす需要を見つけることができなかった<ref name="NEC_2001_649" />。
[[1976年]]2月、NECは半導体・集積回路販売事業部<ref group="注">1976年9月に電子デバイス販売事業部へ改称。</ref>にマイクロコンピュータ販売部を設立し、マイクロプロセッサの販売のために開発環境の供給を開始した。しかし、顧客の元へ訪れて説明するも、なかなか[[マイクロプロセッサ]]を理解してもらえない状況にあった。同じ頃、NECは[[日本電信電話公社]]横須賀通信研究所のある研究室から、新人教育用のマイクロコンピュータ製品の開発を受注することになった。同部門の後藤富雄は部長の[[渡辺和也 (コンピュータ技術者)|渡辺和也]]に教育用キットの開発を提案した<ref name="tk80_reldate" /><ref name="Sekiguchi">{{Cite book|last=関口|first=和一|title=パソコン革命の旗手たち|year=2000|publisher=日本経済新聞社|language=ja|pages=35-39|isbn=4-532-16331-5}}</ref>。
 
[[1976年]]2月、NECは半導体・集積回路販売事業部<ref group="注">1976年9月に電子デバイス販売事業部へ改称。</ref>マイクロコンピュータ販売部を設立し、マイクロプロセッサの販売を促進するために開発環境の供給を開始した。しかし、顧客の元へ訪れて説明するも、なかなか[[マイクロプロセッサ]]を理解してもらえない状況にあった。同じ頃、NECは[[日本電信電話公社]]横須賀通信研究所のある研究室から、新人教育用のマイクロコンピュータ製品の開発を受注することになった。同部門の後藤富雄は部長の[[渡辺和也 (コンピュータ技術者)|渡辺和也]]に教育用キットの開発を提案した。このキットに基づいて、TK-80は一般の技術者向けに開発され、マイクロプロセッサの需要を産業分野以外に創出することを目的としていた<ref name="tk80_reldate" /><ref name="Sekiguchi">{{Cite book|和書|last=関口|first=和一|title=パソコン革命の旗手たち|year=2000|publisher=日本経済新聞社|language=ja|pages=35-39|isbn=4-532-16331-5}}</ref><ref name="Tanaka_1988" />。
 
後藤はTK-80の主要部分を設計し、加藤明が詳細設計を行った<ref name="Sekiguchi" />。後藤は[[KIM-1]]の写真からアイデアを取り入れた。KIM-1はソフトウェアで現在のアドレスを表示するようになっていたが、[[CPU]]がハングするとディスプレイが消えてしまう。TK-80は[[555 タイマー|555タイマー]]ICを使ってCPUに[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]をかけるダイナミックディスプレイを採用したことで、常に現在のアドレスを表示できるようになった。それに加え、TK-80は[[CMOS]]バッテリ機構を搭載していた。後藤は[[オープンアーキテクチャ]]であった[[PDP-8]]の影響を受けて、TK-80のマニュアルに[[回路図]]やデバッグ・モニタの[[アセンブリ言語|アセンブリ]]コードを掲載することにした<ref>{{Cite journal|last=塩田|first=紳二|year=1998|title=国産銘機列伝:開発者インタビュー「オープンの発想はPDP-8から学んだ―TK-80開発者、後藤氏に聞く」|journal=ASCII|volume=22|issue=5|pages=314|publisher=アスキー|language=ja|author-name-separator=|issn=0386-5428}}</ref>。
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この成功を受けてすぐに、他の日本のマイクロプロセッサメーカーはそれぞれのマイクロプロセッサ用に評価キットを開発した。サードパーティからは電源や周辺機器などが登場した。渡辺とその部下は1977年7月に入門書『マイコン入門』を執筆すると、それは大ヒットして20万冊以上を売り上げた<ref name="Sekiguchi" />。また、[[月刊ビジネスアスキー|月刊アスキー]]、[[I/O (雑誌)|I/O]]、[[月刊マイコン]]、[[RAM (雑誌)|RAM]]といったコンピュータ雑誌が創刊された。
 
加藤がBit-INNで販売・修理のサポートをしていたとき、ある医者からTK-80を医療点数計算に使う方法について質問され、また商店主からTK-80で販売伝票を整理できるか質問された。加藤は、ユーザーがTK-80を教育キットではなくコンピュータとして使おうとしていることに気付いた。しかし、TK-80は実用で使用するためにはメモリと拡張性が不足していた。同じ頃、サードパーティのメーカーより、テレビ出力とBASICインタプリタを搭載した拡張ボードが提案された<ref>加藤明、「[[doi:10.1587/bplus.2010.15_58|PC-8001の開発]]」 『電子情報通信学会 通信ソサイエティマガジン』 2010年 2010巻 15号 p.15_58-15_65, {{doi|10.1587/bplus.2010.15_5}} [[電子情報通信学会]]</ref>。このボードをTK-80に組み込んだバージョンが、1977年末にTK-80BSとして発売された。搭載されたBASICは4KBのROMに収まるように設計され、いくつかの機能やステートメントの違いを除いて[[王理瑱]]の[[Tiny BASIC]]と同じであった<ref name="ascii_197801">{{Cite journal|和書|year=1978|title=TK-80BS|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=2|issue=1|publisher=アスキー出版|issn=0386-5428}}</ref>。その機能や速度はユーザーを満足させるには至らなかった。このことが後のPC-8001の開発に繋がった<ref name="Tanaka_1988">{{Cite book|和書|last=田中|first=繁廣|title=100万人の謎を解く ザ・PCの系譜|date=1988-02-17|publisher=コンピュータ・ニュース社|isbn=4-8061-0316-0|pages=76–89|chapter=ドキュメント・NECのPC戦略―市場制覇への道を切り拓いた戦士達 その決断と挑戦の歴史}}</ref><ref name="Tanaka_1988_2">{{Cite book|和書|last=田中|first=繁廣|title=100万人の謎を解く ザ・PCの系譜|date=1988-02-17|publisher=コンピュータ・ニュース社|isbn=4-8061-0316-0|pages=94–105|chapter=NECのハード開発戦略―ユーザーをとらえた「互換性と継承性の追求」優先の製品開発}}</ref>。
日本では、[[Altair 8800]]は1975年に販売されていたが、輸入仲介手数料が高かったため売れなかった。[[Apple II]]や[[PET 2001]]も同様であった<ref name="ascii_2205">{{Cite journal|author=塩田|first=紳二|year=1998|title=国産銘機列伝:History「マイコンと呼ばれていた頃」|journal=ASCII|volume=22|issue=5|pages=312-313|publisher=アスキー|language=ja|author-name-separator=|issn=0386-5428}}</ref>。ワンボードマイコンは1979年に[[PC-8000シリーズ|PC-8001]]が登場するまで人気を博した。
 
日本では、[[Altair 8800]]は1975年に販売されていたが、輸入仲介手数料が高かったため売れなかった。[[Apple II]]や[[PET 2001]]も同様であった<ref name="ascii_2205">{{Cite journal|和書|author=塩田|first=紳二|year=1998|title=国産銘機列伝:History「マイコンと呼ばれていた頃」|journal=[[月刊アスキー|ASCII]]|volume=22|issue=5|pages=312-313|publisher=アスキー|language=ja|author-name-separator=|issn=0386-5428}}</ref>。ワンボードマイコンは1979年に[[PC-8000シリーズ|PC-8001]]が登場するまで人気を博した。
 
== 特徴 ==