「商法講習所」の版間の差分

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== 沿革 ==
[[画像:CommercialCollege-M9-M20.png|thumb|250px|商法講習所から高等商業学校までの制度変遷略図]]
駐米代理公使だった森有礼は諸外国と処する対抗していくには商業が欠かせないと感じ、商業を専門に教える学校の設立を計画した。[[岩倉具視]]から了解を得たものの、学校建設の資金が足りず東京会議所の会頭・[[渋沢栄一]]に資金援助を願い出た<ref name=okubo>[http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/2746/biography-okubo-04.html 帰国、そしてクララ・ホイットニーとの出会い]植物学者 大久保三郎の生涯</ref>。校長には駐米中に交流のあった商業学校校長の[[ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー]]を就任させる予定でいたが、渋沢が難色を示したため、1875年(明治8年)8月のホイットニーの来日に間に合わず、やむなく官立の商業学校設立を諦め、翌9月に銀座尾張町に私設の「商法講習所」を開設し授業を始めた<ref name=okubo/>。ホイットニーとは5年間、年給2500円(日本人教師の[[高木貞作]]の5倍以上)で契約した<ref name=okubo/>。
 
設立当初は[[お雇い外国人]]教師[[ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー]]により、英語の教本を用いて、英語で授業が行われた。
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記録に残る最初の[[修業年限]]は 1年半(18ヶ月)で、入学後の 6ヶ月間は英語の教育に充当されていた。修業年限はその後 2年([[1876年]]10月以降)、5年([[1881年]]4月以降)と延長され、教育令のもとでの商業専門学校を自称した。
 
後発の商業教育機関が日本式の教育を行うようになってからも、商法講習所は洋式教育を続けた(5。修業年限が5になってからは、最初の3年間で内国商業科目と英語とを教え、残り2年間で英語により外国商業を教えた。英語のほかには、模擬商業実践が特徴的であっ取り入れられた。これは校内に模擬店舗・銀行・郵便局などを設け、模擬貨幣を使用して商取引の実演を行う授業であり、後発の商業諸校もこれに倣った。
 
校舎は当初、銀座尾張町(現・東京都中央区銀座6丁目)にあった鯛味噌屋の2階を使用したが、1876年8月、新築の銀座木挽町校舎に移転した。この校舎は森の自邸内にあったが、森が清国駐在公使を命じられた際に寄付され<ref name=okubo/>、後身の東京商業学校に引き継がれ、神田一ツ橋に移転する [[1885年]]9月まで使用された。
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*[[神戸商業講習所]] - [[大阪商業講習所]]
*[[簿記講習所]]
*[[三菱商業学校]]
 
== 外部リンク ==