「尾上松助 (5代目)」の版間の差分

'''五代目 尾上 松助'''（おのえ まつすけ、[[1887年]]〈[[明治]]20年〉[[3月24日]] - [[1937年]]〈[[昭和]]12年〉[[8月9日]]<ref name=":0binran">{{Cite book|和書|title=歌舞伎俳優名跡便覧|year=2020|publisher=独立行政法人日本芸術文化振興会|page=140|chapter=尾上（松助・松也・紋十郎）|edition=第五次修訂版}}</ref>）は、明治から昭和初期の[[歌舞伎]]役者、[[俳人]]。[[屋号]]は[[音羽屋]]。[[俳名]]は'''甲羽'''、本名は'''福島 幸吉'''（ふくしまこうきち）、のちに'''秀年'''<ref name=":0binran" />。

1887年3月24日、[[神田]]に生まれる<ref name=":4Gaho1937">{{Cite journal|和書|month=9|year=1937|title=尾上松助逝く|journal=[[演藝画報]]|volume=31|issue=9|page=53}}</ref>。幼少期は[[市川左團次 (初代)|初代市川左團次]]の芝居こそ好きだったが、役者自体は嫌いだったという<ref name=":1Isaburo1912">{{Cite journal|和書|author=尾上伊三郎|month=7|year=1912|title=役者になつてしまつた|journal=[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]|volume=15|issue=10|pages=82-91}}</ref>。しかし、兄が[[浅草]]の[[子供芝居]]において[[尾上菊松]]という名で役者をやっていた関係から[[芝居小屋]]に出入りすることがあり<ref name=":1Isaburo1912" />、[[1898年]]5月に自身も[[東京座]]で初舞台を踏んだ<ref name=":0binran" />。このときの演目は『[[新版歌祭文]]』野崎村の段で、本名のまま尾上幸吉として船頭をつとめた<ref name=":8AsahiObituary">{{Cite news|和書|title=死んだ松助 競馬では六代目の師匠 俳句では玄人格|date=1937-8-11|newspaper=東京朝日新聞|page=3|edition=夕刊}}</ref>。またこの頃、兄菊松の影響を受けて[[俳句]]をはじめた。初歩を兄に習ったのちに従兄弟の[[岩本梓石]]という俳人のもとに兄弟で入門、俳号を本名と音の通じる<ref name=":3Miyake">{{Cite journal|和書|author=三宅狐軒|month=9|year=1937|title=松助を悼む|journal=春泥|volume=86|pages=35-38}}</ref><ref name=":5Toita">{{Cite book|和書|title=演芸画報・人物誌|year=1970|publisher=青蛙房|pages=97-101|author=[[戸板康二]]|chapter=句楽会}}</ref>「甲羽」とした<ref name=":2Isaburo1920">{{Cite journal|和書|author=尾上伊三郎|month=9|year=1920|title=俳優は俳諧趣味を|journal=演藝画報|volume=合同7年|issue=9}}</ref>。

入門の翌年に菊松が死亡すると、幸吉は俳優を廃業しようと考えたが[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目菊五郎]]の未亡人の意見で思い留まり、兄の名を三代目として継いだ上で六代目尾上菊五郎門下となった<ref name=":2Isaburo1920" />。俳句の方では『晒井』という雑誌の同人として活動していたが、[[高浜虚子]]、[[内藤鳴雪]]らに認められて『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』に寄稿するようになった。福島甲羽という名前で特に[[写生文]]を多く書いたが、11巻11号の「将棋」では幕間の[[守田勘彌 (13代目)|守田勘弥]]の楽屋における風景を、十三巻二号の「幕明の舞台」では『[[鬼一法眼三略巻]]』の舞台上で台詞が出なくなった時の体験についてそれぞれ描くなど役者としての身の回りのことを多く題材とした<ref name=":3Miyake">{{Cite journal|和書|author=三宅狐軒|month=9|year=1937|title=松助を悼む|journal=春泥|volume=86|pages=35-38}}</ref><ref name=":6Matsumoto">{{Cite book|和書|title=俳壇・俳人・俳風景|year=1935|publisher=真白社|author=松本翠影|pages=205-209|chapter=一七 福島甲羽}}</ref>。[[寒川鼠骨]]からはこうした作品について「文章は何処迄も迫らず落ち着て、且つ観察の細い点は此人の特色で、敬服する許である」<ref>{{Cite journal|和書|author=鼠|author-link=寒川鼠骨|month=1|year=1910|title=写生文壇|journal=ホトトギス|volume=13|issue=4|page=14}}</ref>という評価を受け、福島甲羽は「ホトトギス派の中堅の作家」<ref name=":3Miyake" />として目されるようになり、『ホトトギス』誌上でも「写生文壇の宿将」<ref>{{Cite journal|和書|author=青峰|author-link=嶋田青峰|month=8|year=1915|title=消息|journal=ホトトギス|volume=18|issue=11|page=92}}</ref>と呼ばれたりした。

[[1911年]]2月、[[歌舞伎座]]の興行で[[尾上伊三郎]]と名前を改めて[[名題]]昇進。[[長谷川時雨]]の新作『さくら吹雪』<ref>{{Cite journal|和書|author=[[寺田詩麻]]|year=2005|title=長谷川時雨「さくら吹雪」について|journal=演劇学論集 日本演劇学会紀要|volume=43|page=173|DOI=10.18935/jjstr.43.0_165}}</ref>中の腰元岩橋の役だった<ref name=":9Almanac">{{Cite book|和書|title=人気役者の戸籍調べ|year=1919|publisher=文星社|page=36|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908783/45|editor=高沢初風}}</ref>。名題昇進にあたって『晒井』の[[小泉迂外]]<ref name=":2Isaburo1920" />や『ホトトギス』の[[渡辺水巴]]、高浜虚子<ref name=":7Hasegawa">{{Cite journal|和書|author=かな女|author-link=長谷川かな女|month=12|year=1916|title=甲羽さん|journal=ホトトギス|volume=20|issue=3|pages=38-39}}</ref>らが中心となって「甲羽会」が発足し、俳人連中の総見が催されたほか<ref name=":6Matsumoto" />、特に虚子は『[[国民新聞]]』上に伊三郎の名題昇進についての記事を出した<ref name=":7Hasegawa" /><ref>{{Cite news|和書|title=歌舞伎座劇評|date=1911-2-21|newspaper=東京朝日新聞|author=竹の屋主人|authorlink=饗庭篁村|page=7|edition=朝刊}}</ref>。本人が「甲羽観劇会が組織されたのを名残に、その後自然と俳句に遠ざかり」<ref name=":2Isaburo1920" />と述べている通り、名題となってからは役者としての本業に集中し<ref name=":6Matsumoto" />、俳人福島甲羽としての創作は減っていった。それでも時折尾上伊三郎の名で『ホトトギス』に随筆や小説を寄稿し、[[1915年]]10月の19巻1号に載った「同棲してから」などは『[[読売新聞]]』<ref>{{Cite book|和書|title=第三巻 大正四年|year=2006|publisher=ゆまに書房|series=文藝時評大系 大正編|editor=宗像和重|page=339}}</ref>及び『[[東京日日新聞]]』<ref>{{Cite book|和書|title=第三巻 大正四年|year=2006|publisher=ゆまに書房|editor=宗像和重|series=文藝時評大系 大正編|page=350}}</ref>の文芸月評で取り上げられた。また、[[田村寿二郎]]らが[[句楽会]]という劇界の句会を作ると、伊三郎も同人として参加し<ref name=":5Toita" />、句作を再開した<ref name=":2Isaburo1920" />。

昭和に入ってからは、[[ラジオドラマ]]に出演しながら<ref>{{Cite news|和書|title=ラヂオ・ドラマ「電報」の主役|date=1927-8-21|newspaper=読売新聞|page=10|edition=朝刊}}</ref><ref name=":10">{{Cite news|和書|title=お昼の放送舞台劇『与三郎命の月魄』は…お富を殺す與三郎|date=1931-7-5|newspaper=読売新聞|edition=朝刊|page=5}}</ref>、菊五郎劇団の脇役として舞台に上がっていたが、役付きは悪く、苦労する日々が長く続いた<ref name=":11Asahi1934">{{Cite news|和書|title=大部屋の悲哀 苦労人伊三郎丈があきらめの心境|date=1934-3-26|newspaper=東京朝日新聞|page=3|edition=夕刊}}</ref>。こうした苦境については句楽会の仲間、[[久保田万太郎]]も「いまの役者のうちで尾上伊三郎ほど有名でない役者もないだろう。その藝からいっても、その位置からいっても、もっと有名にならなければ」<ref>{{Cite book|和書|title=第15巻|year=1948|publisher=好学社|author=久保田万太郎|chapter=尾上伊三郎|series=久保田万太郎全集|page=257}}執筆の日付は「昭和十年三月」。</ref>と言ったほどだったが、[[1932年]]、いよいよ重要な名跡である[[尾上松助]]を継ぐ話が浮上した<ref name=":12Yomiuri1932">{{Cite news|和書|title=尾上伊三郎が松助を襲名 師匠菊五郎の推挙で|date=1932-3-27|newspaper=読売新聞|edition=夕刊|page=3}}</ref>。この尾上松助という名は過去に[[尾上菊五郎 (3代目)|三代目尾上菊五郎]]とその子が名乗ったこともあり、また先代の[[尾上松助 (4代目)|四代目尾上松助]]は殊に名人として有名だったため、[[音羽屋]]門下の名跡としては極めて大きいものだった。

[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]、[[尾上梅幸 (6代目)|六代目尾上梅幸]]らの相談の結果<ref>{{Cite news|和書|title=松助襲名は丈賀の成績次第 及第せば急速に許される 受験生伊三郎の懸命|date=1932-9-14|newspaper=読売新聞|page=3|edition=夕刊}}</ref>、伊三郎の松助襲名は五代目菊五郎の三十三回忌追善興行で行われることとなり、1935年、歌舞伎座3月興行において『[[水天宮利生深川]]』の差配人与兵衛、及び『[[白浪五人男]]』の浜松屋番頭与九郎役で五代目尾上松助を襲名した<ref>{{Cite web|url=https://www.dh-jac.net/db1/ban/B-1-5R-01_065/shochiku/0/|title=五代目尾上菊五郎三十三回忌追善興行|accessdate=2021-3-20|publisher=[[立命館大学]]}}</ref>。この時、新松助は普段の実直な性格から挨拶状を出すだけで済ませようとしたが、俳句界からは[[宇佐美不喚洞]]を中心に虚子、[[岡本癖三酔]]、[[荻原井泉水]]、[[富安風生]]、[[赤星陸治|赤星水竹居]]といった重鎮たちが発起人となって再び総見が呼びかけられただけでなく、襲名記念の品として[[大谷光演|大谷句佛]]、[[河東碧梧桐]]らも書を寄せた[[貼交屏風]]が贈られた<ref name=":6Matsumoto" />。

1937年1月、頼りにしていた一番上の兄、力太郎が死去<ref name=":13Asahi1937">{{Cite news|和書|title=柳橋亀清楼主|date=1937-1-29|newspaper=東京朝日新聞|page=2|edition=夕刊}}</ref>。また同時期に師匠六代目菊五郎の母寺島さとも死去し<ref>{{Cite news|和書|title=六代目母堂|date=1937-1-29|newspaper=東京朝日新聞|page=2|edition=夕刊}}</ref>、葬儀のために心労が重なっていった<ref name=":3Miyake" />。5月歌舞伎座の『[[神明恵和合取組]]』での亀右衛門役をつとめた後、病気になったため、六代目の巡業の座組からはずれて自宅療養をしていたが8月9日、死亡した<ref name=":4Gaho1937" />。

* 本人の談話によれば、父方の祖父は[[鶴澤市作]]<ref>{{Cite web|title=鶴沢 市作とは|url=https://kotobank.jp/word/%E9%B6%B4%E6%B2%A2%20%E5%B8%82%E4%BD%9C-1649968|website=コトバンク|accessdate=2021-03-20|language=ja|first=20世紀日本人名事典,新撰 芸能人物事典|last=明治～平成}}</ref><ref>{{Cite web|title=鶴沢市作とは|url=https://kotobank.jp/word/%E9%B6%B4%E6%B2%A2%E5%B8%82%E4%BD%9C-1092696|website=コトバンク|accessdate=2021-03-20|language=ja|first=デジタル版|last=日本人名大辞典+Plus}}</ref>という[[義太夫節|義太夫]]の三味線方で、上方から東京に来て歌舞伎[[竹本]]の中心的人物となっていたほか、父もその道に詳しく五代目菊五郎から一目置かれていたため、尾上菊松として音羽屋の一門に入った松助が大部屋俳優扱いになったことに激怒したという<ref name=":11Asahi1934" />。また1937年に死亡した長兄は[[柳橋 (花街)|柳橋]]の老舗料亭[[亀清楼]]の主人であったが<ref name=":3Miyake" /><ref name=":13Asahi1937" />、松助自身も「末吉」<ref name=":15Suzuki">{{Cite journal|和書|author=[[鈴木燕郎]]|month=9|year=1937|title=甲羽を惜しむ|journal=春泥|volume=86|pages=32-34}}</ref>や「美佐保」<ref>{{Cite news|和書|title=尾上伊三郎 日本橋濱町一の一へ移転待合『美佐保』を開業|date=1926-10-6|newspaper=読売新聞|page=5|edition=朝刊}}</ref>という名前の[[待合茶屋|待合]]を経営した<ref>{{Cite journal|和書|author=尾上伊三郎|month=5|year=1931|title=泥棒と間違えられる|journal=演藝画報|volume=5|pages=60-61}}</ref>。[[木下笑風]]の[[仲人|媒酌]]で結婚した妻<ref name="Miyake" />との間には二人の娘がおり<ref name=":4Gaho1937" />、息子はいなかった<ref name=":11Asahi1934" />。

* 几帳面で神経質な人格であり<ref name=":8AsahiObituary" />、また「決して野心を出さず、寧ろ世間からは歯掻ゆがられる程、平々凡々」<ref name=":3Miyake" />だった。従って脇役に徹しながら芸歴が長くなっていくにつれ芸の中に「どことなく枯淡な味」<ref name=":3Miyake" />が出て来、先代松助を彷彿とさせるということで襲名へと繋がったが<ref name=":12Yomiuri1932" />、本人はその真面目さ・几帳面さ故に襲名後「「名と役」の釣あいが取れぬ事を不満に思い松助の名に対して相済まぬ」<ref name=":3Miyake" />と思い悩んでいたようだったという。

* 師匠である六代目菊五郎に対しても真正面から物事を述べる生真面目さと気骨があり<ref name=":6Matsumoto" />、[[尾上梅幸 (7代目)|七代目尾上梅幸]]は松助について「白は白、黒は黒とはっきりさせ、けっしておべんちゃらをいわなかった」とし、父菊五郎の方も「うるさ型であっても実力があり、筋のとおっている福島さん」<ref name=":14Baiko">{{Cite book|和書|title=梅と菊|year=1980|publisher=日本経済新聞社|pages=241-243|chapter=四、五代目尾上松助|author=尾上梅幸}}</ref>を重宝していたと回顧する。梅幸は具体的なエピソードとして以下の二つを記している<ref name=":14Baiko" />。

* 七代目尾上梅幸はさらに晩年の逸話として、『魚屋宗五郎』の三吉を演じていた際、六代目菊五郎から「三吉じじい」とからかわれたために[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]にその型を丁重に教え、自身は二度と三吉の役をつとめなかったことを書いている<ref name=":14Baiko" />。

* 句人としての方が有名で<ref name=":8AsahiObituary" />、「文学俳優」<ref name=":9Almanac" />などと呼ばれたほか、新聞や雑誌では「虚子門の俳人甲羽」と紹介されたと自身も言っているが<ref>{{Cite journal|和書|author=尾上伊三郎|month=1|year=1917|title=俳句の恩|journal=ホトトギス|volume=20|issue=4|page=109}}</ref>、役者の間でも指南役を買って出、六代目菊五郎でさえ甲羽の添削をあてにしていたという<ref name=":4Gaho1937" />。また俳諧のために非常な勉強家・読書家でもあり<ref name=":4Gaho1937" />、菊松時代のゴシップとして、役者としては珍しく文学趣味のある所を気に入った五代目菊五郎の妾の秋田ぎんが娘（六代目菊五郎と[[坂東彦三郎 (6代目)|六代目坂東彦三郎]]の妹にあたる）の相手として考えていた話が残っている<ref>{{Cite journal|和書|month=7|year=1910|title=くさぐさ|journal=演藝画報|volume=4|issue=7|page=120}}</ref>。加えて、競馬にも明るく、この方面でも六代目菊五郎の師匠となっていたが、六代目菊五郎が馬主になってからは義理でその馬券を買い、損していたと追悼記事で語られている<ref name=":8AsahiObituary" />。

* 役者としての当たり役は伊三郎時代が『[[義経腰越状]]』の泉三郎、『[[復讐談高田馬場]]』の安兵衛など「殊に敵役に適せり」<ref name=":9Almanac" />とされていたが、七代目梅幸は『髪結新三』の勝奴、『[[新皿屋舗月雨暈]]』の三吉、『[[人情噺文七元結|文七元結]]』の藤助や『[[巷談宵宮雨]]』の石見銀山売りといった役を挙げている<ref name=":14Baiko" />。このほか、1936年12月の『[[人情噺小判一両]]』でつとめた紙凧売は吉右衛門や菊五郎と互角の芝居であったと絶賛された<ref name=":4Gaho1937" /><ref name=":8AsahiObituary" /><ref name=":15Suzuki" />。