「マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官)」の版間の差分

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[[紀元前43年]]、[[三頭政治#第二回三頭政治|第二回三頭政治]]が出した[[プロスクリプティオ]](国家の敵)に名前が載ったため、[[シキリア属州]]に逃亡した。そこで[[セクストゥス・ポンペイウス]]の反乱に加わるが、[[ミセヌム]]の和約が結ばれて戦争が終結すると、イタリアに戻った。ローマでは[[マルクス・アントニウス]]を支持した<ref>[[カッシウス・ディオ]]『ローマ史』、LI, 4</ref>。[[紀元前37年]]には[[クレタ]]・[[キレナイカ|キュレナイカ]]属州<ref>Broughton, p. 397</ref>、紀元前35年頃には[[ビテュニア]]属州<ref>Broughton, p. 408</ref>の総督を務めた。
 
その後は[[オクタウィアヌス]]の支持に回る。[[紀元前31年]]には[[アウグル]](鳥占官)の一人となった<ref>Broughton, p. 425</ref>。[[紀元前30年]]、[[プラエトル|法務官]](プラエトル)の経験が無かったにも関わらず、執政官に就任した<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』、LI, 4</ref>。続いて[[プロコンスル|前執政官]](プロコンスル)として[[マケドニア属州]]の総督となった。そこでクラッススは[[ダキア人]]、ドナウ川を渡って[[モエシア]]・[[トラキア]]に侵入してきたバスタルナエ人([[:en:Bastarnae|en]])に勝利し、また一騎打ちでバスタルナエ王デルドンを倒している。続いてモエシアの大部分を占領し、トラキア部族を懐柔した。この成功によりモエシアは完全にローマの支配下となり、その後直ぐに皇帝[[属州]]とされた<ref>Parfenov, p. 28-30</ref>。クラッススは、バスタルナエ人が[[紀元前62年]]に[[ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ([[:en:Gaius Antonius Hybrida|en]]に勝利して奪っていた軍旗を取り戻した<ref>カッシウス・ディオ『ローマ史』、LI, 26</ref>。
 
[[紀元前29年]]、クラッススの兵達は彼を[[インペラトル]](総司令官)と讃え、ローマに戻った[[紀元前27年]]7月4日には[[凱旋式]]を実施している<ref>Parfenov, p. 30</ref>。敵王デルドンを一騎打ちで倒したクラッススはデルドンの甲冑をユーピテル・フェレトリウス神殿に寄贈しようした([[スポリア・オピーマ]])。この栄誉を得ているのはローマ史上3人しかいなかったが、クラッススが過度の人気を得ることを恐れたオクタウィアヌスは様々な手段を講じてこれを阻止した<ref>Parfenov, p. 32-35</ref>。
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[[紀元前27年]]以降、クラッススに関する記録は無い。オクタウィアヌスとクラッススの確執は、[[プリンキパトゥス]](元首政)が確立されていく過程において、より激しくなったと思われる<ref>Parfenov, p. 38</ref>。
 
[[紀元前14年]]に執政官となったマルクス・リキニウス・クラッスス・ディウェスフルギ([[:en:Marcus Licinius Crassus DivesFrugi (consul 14 BC)|en]])はクラッススの養子である<ref>Syme (1989), p. 276</ref>。
 
== 系図 ==
 
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