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東急・東映社史ではセネタースを'''青鞜'''(せいとう)と表記する場合がある<ref group="注">これは、[[読売ジャイアンツ]]の前身の東京巨人軍が'''巨人'''の愛称で呼ばれることを受けて、[[鈴木惣太郎]]が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、[[阪神タイガース|大阪タイガース]]を'''猛虎'''、セネタースを青鞜、[[松竹ロビンス|パシフィック]]を'''太平'''と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため、定着しなかった。{{See|日本野球連盟 (プロ野球)#1946年の球団愛称}}</ref>。
 
{{by|1946年}}[[9月27日]]の対[[大映ユニオンズ|ゴールドスター]]戦([[阪急西宮スタジアム|西宮球場]])で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる[[放棄試合]]とみなされ、0-9で敗戦した。[[苅田久徳]]を可愛がっていた[[猿丸元]](のち、東急球団代表)<ref name="sponichi1104">{{Cite web |date = 2011-04-19 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1104/kiji/K20110419000897150.html |title = 【4月19日】1952年(昭27) すったもんだの末に…西鉄 4番大下弘 初登場 |publisher = [[スポーツニッポン]] |accessdate = 2015-10-18 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20150924165841/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1104/kiji/K20110419000897150.html |archivedate = 2015-09-24 }}</ref>が[[五島慶太]]の子分で、猿丸が五島に球団経営を勧め<ref name="岡田">{{Cite book | 和書 | title = 波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝 | author = [[岡田茂 (東映)|岡田茂]] | publisher = [[角川書店]] | year = 2004 | pages = 210 - 212 | id = ISBN 4-04-883871-7 }}</ref>、同年[[12月18日]]、[[東京急行電鉄]](東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却した<ref>{{Cite book |和書 |author = [[大川博]] |title = 真剣勝負に生きる |year = 1967 |publisher = [[ダイヤモンド社]] |series = 歴史を作る人々 |page = 77 }}</ref>。セネタースと東急との仲介の労をとったのは[[小西得郎]]と[[浅岡信夫]]、[[黒川渉三]]である<ref>{{Cite web |url = http://www.geocities.jp/qdrbc105/KOKUMIN/SENATORS.html |title = ふたつのセネタース球団 |work = もうひとつのプロ野球 『国民リーグ』 |accessdate = 2015-10-18 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |editor = 関三穂 編 |title = プロ野球史再発掘 |volume = 4 |year = 1987 |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |series = スポーツ・ノンフィクション・シリーズ |pages = 13 - 16 |isbn = 4583026218 }}</ref>。運営法人として、'''株式会社東急ベースボール倶楽部'''を設立。翌1947年の[[1月7日]]、球団名を'''東急フライヤーズ'''(とうきゅうフライヤーズ、''Tokyu Flyers'')とした。当時の東急はまだ[[大東急]]と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった[[大川博]]がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。
 
{{by|1948年}}[[4月9日]]、これまでプロ球界入りを画策して[[国民野球連盟]]にも接近し[[大塚アスレチックス]]といくつかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を'''急映フライヤーズ'''(きゅうえいフライヤーズ、''Kyuei Flyers'' )に改称した{{Refnest|group="注"|東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男([[横沢三郎]]の兄)の仲介で、[[五島慶太]]と[[永田雅一]]を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させた<ref>{{Cite book |和書 |editor = 関三穂 編 |title = プロ野球史再発掘 |volume = 5 |year = 1987 |publisher = ベースボール・マガジン社 |series = スポーツ・ノンフィクション・シリーズ |pages = 232, 262頁 |isbn = 4583026226 }}</ref>。}}。しかし、同年[[12月1日]]、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った([[大映ユニオンズ]]を参照)。
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;[[1973年の日拓ホームフライヤーズ|1973年]]
 
1月16日に、球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を、親会社の東京急行電鉄が東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である[[西村昭孝]]<ref group="注">西村昭孝は、現在の日拓グループ社長である[[西村拓郎]]の実父で、拓郎の妻・[[神田うの]]の義父に当たる。</ref> の経営する[[不動産会社]]・[[日拓グループ|日拓ホーム]]へ球団を売却した<ref name="ワシのファイターズ11">祝プレーオフ進出 OB大下剛史「これがワシのファイターズ」(11)『東京スポーツ』連載、2006年9月28日。</ref>。売却額は3億円<ref name="岡田" />で、日拓ホームは買収を機に、球団の商号を'''日拓ホーム野球株式会社、'''チーム名を'''日拓ホームフライヤーズ'''(にったくホームフライヤーズ、''Nittaku Home Flyers'' )に改称。2月7日のパ・リーグ実行委員会で、球団名の変更が承認された。
 
岡田・五島・西村はいずれも「亀清会」([[経済界 (出版社)|雑誌『経済界』]]主幹の佐藤正忠と[[東急エージェンシー]]社長の前野徹が主宰していた若手実業家の親睦会)のメンバーで、岡田が1972年12月の例会で東映フライヤーズの売却計画を他のメンバーへ打ち明けたことを機に、日拓ホームの知名度と企業イメージの向上を目論んでいた西村と意気投合<ref>[[長谷川晶一]]『虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10ヶ月』([[柏書房]]、[[2019年]][[3月20日]]初版刊行)序章「映画『仁義なき戦い』と東映フライヤーズ」pp.16 - 20</ref>。日拓ホームの関連会社・日拓観光の硬式野球部が当時[[社会人野球]]に参加していたことや、社会人野球のチームを保有した経験のある企業の社長([[丸井]]の[[青井忠雄]]や[[日本熱学工業]]の[[牛田正郎]])も「亀清会」のメンバーだったことから、一時は牛田の提案で「輪番制」(会員企業による数年単位の持ち回り)による球団運営も検討されていた。結局、佐藤や前野が西村を説得した末に、日拓ホームが単独でフライヤーズの受け皿になった<ref>前掲書『虹色球団』第三章「日拓ホームフライヤーズ誕生­ ‐ 一九七三年初春」pp.66 - 69</ref>。
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::* すぽーつドーム
::* アンカー!
::* [[[E]スポーツ]]
::* [[Hana*テレビ]]
:; STV [[札幌テレビ放送]]