「福岡ソフトバンクホークス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Y-57_YT.HKによる出典除去の取り消し。
169行目:
{{by|1938年}}[[3月1日]]に[[南海電気鉄道|南海鉄道]]を親会社とする'''南海軍'''(なんかいぐん)が結成され(運営会社は「南海野球株式会社」)、関西の私鉄界では[[阪神電気鉄道]]、[[阪急電鉄|阪神急行電鉄(阪急)]]に続く3番目のプロ野球球団となった。阪神の[[細野躋]]や阪急の[[小林一三]]が南海の[[寺田甚吉]]社長と[[小原英一]]取締役に設立を勧め、寺田のツルの一声で決まったとされている。誕生に際しては「陣痛の苦しみを知らぬおおらかさで産声を上げた」と『南海ホークス四十年史』で記述されている。本拠地は[[大阪府]][[堺市]]の[[堺大浜球場]]。
 
同年[[3月29日]]に行われた[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本職業野球連盟]]の総会で加盟が承認されたが、この総会の状況についてはいくつかの異なる証言がある{{Sfn|ホークス四十年史|1978|p=82}}。当時連盟理事長の[[鈴木竜二]]が「古い話で誰が言ったか定かでない」と述べているが、[[名古屋金鯱軍]]の[[山口勲]]が反対意見を出したのが定説とされる{{Sfn|ホークス四十年史|1978|p=82}}。反対意見は既に1937年度から8チームでのリーグ戦を開催していたため、南海軍の出場を認めると9チームで開催することとなり、日程上1チームは試合から外されてしまう事への抵抗だったとされる{{Sfn|ホークス四十年史|1978|p=82}}。一方で[[阪神タイガース|大阪タイガース]]常務の[[細野躋]]が南海の加盟が認められないなら脱退も辞さぬと述べたともされるが、そのような険悪な雰囲気はなかったと、総会に参加した書記の野口務の報告にある{{Sfn|ホークス四十年史|1978|p=82}}。また、当時の部員は監督と選手合わせて14名と人数的にも少なかった。しかし、連盟とリーグ参加各チームは条件付きの参入を決めた。これは春季リーグの参加は開幕が近づいており、日程編成の調整が難しかったことも考えられているが、一番の理由としては「選手を補強し、その実力を考慮に入れた上で秋季リーグからの参加を認める」というもので、春季リーグはいわばリーグ戦に参加できない準加盟チーム扱いでのスタートだった。その為秋季リーグ戦から参加となる。
 
==== 戦前 ====