「上原勇作」の版間の差分

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* 日露戦争時の[[旅順攻囲戦]]で、[[日本軍]]([[乃木希典]]大将指揮)が大苦戦したことを受け、上原は「私は日本の工兵を厳しく鍛え上げたが、ただ一つの手抜かりは、工兵による要塞攻略、特に坑道掘削作戦の戦術研究と訓練を怠ったことだ。これをやっておれば旅順であんなに苦戦しなかった」と語り、日露戦争が終わった後、上原の指導の下に直ちに要塞攻略戦の研究が始まり、[[1906年]](明治39年)に[[小倉練兵場]]に於いて第一回要塞攻略演習を行った。
* 第7師団長就任を長州閥による左遷人事と揶揄するものもいるが実情はやや異なる。歩兵科以外から師団長を出すべきという機運が高まると上原は大迫[[砲兵監]]、秋山[[騎兵監]]とともに寺内陸相に直談判を行う。結果、長らく工兵監だった上原が工兵科初の師団長になることになった。寺内に希望を問われると「大臣が余り干渉せざる地方にして…」つまり工兵監時代同様、自分の自由にさせろと要求した。さらに「人が余り好まざる場所ならば進んで赴かん。」と続けた。歩兵科の重要ポストを奪うわけだから後々の人間関係を考慮した優秀な参謀としての模範解答であった。寺内も上原がそう答えると分かっていたので「北海道は如何」と即答している。つまり'''栄転させて中央から遠ざけた'''のである。一方、寺内は上原の機嫌を損なわぬよう第3師団の特別視察を許可し、予算もそのまま通過させている。
* [[シベリア出兵]]では国際協定によって撤兵が決定され、大正9年1月、[[原内閣]]が陸相[[田中義一]]の同意を得て撤兵を閣議決定したものの、当時[[参謀総長]]であった上原は「[[統帥権干犯]]」を理由に拒絶する。これは[[内閣]]と陸軍省が参謀総長に相談なく、[[天皇]]の裁可も得ずに独断で決定したこと。さらに、非公式の書類一通で通知してきたことに対して反発したもので、上原は陸軍省に[[公文書|公文]]をもって天皇の許可が得られれば撤兵する旨を伝えたが、陸軍省の作業は遅々として進まなかった。さらに陸軍省は、期間が不透明な逐次撤退を主張したのに対し、参謀本部は即時撤退を主張し両者の意見は対立する。陸軍省は[[ウラジオストク]]に要塞を構築して一部占領を継続するつもりであったのである。平行線の中、[[チタ]]方面で第5師団が攻撃を受けたことへの報復攻撃で連続戦闘に移行し、撤退は困難な情勢となる。結果、撤退時期が有耶無耶になり日本だけが[[シベリア]]に駐留することとなって国際的非難を受けた。[[原敬]]首相は「参謀本部の陰謀」と断じて、上原を非難し、激怒した田中が上原を更迭しようとすると、上原は[[元老]][[山縣有朋]]に懇願して更迭策を阻止している。<!--参照:雨宮昭一『近代日本の戦争指導』([[吉川弘文館]]、1997年) ISBN 4642036660 -->また、これにより2か月後の[[尼港事件]]の遠因ともなったが、撤退協議のため停戦指示を出して状況を悪化させた陸軍省と田中が責任を負うことになった。
* 上原閥は山縣閥の分派であるが、山縣同様に藩閥にこだわらなかったため、数では長州閥を凌駕するようになり、多くの大将、中将([[井戸川辰三]]、[[宇宿行輔]]、[[与倉喜平]]、[[高島友武]]、[[高山公通]]、[[長坂研介]]、[[権藤伝次]]、[[佐多武彦]]、[[伊丹松雄]]、[[岩越恒一]]、[[橋本群]]、林柳三郎、佐久間為人など)を輩出した。薩閥([[大迫尚道]]、[[町田経宇]]、[[田中国重]]、[[菱刈隆]])を始めとした九州閥([[宇都宮太郎]]、[[福田雅太郎]]、[[尾野実信]]、[[武藤信義]]、[[真崎甚三郎]])、陸士旧3期(+旧2期)閥([[秋山好古]]、[[大谷喜久蔵]]、[[内山小二郎]]、[[柴五郎]])、第5(野津)師団閥([[浅田信興]]、[[一戸兵衛]])、副官閥([[奈良武次]]、[[今村均]])、工兵閥などで構成されており、長州閥と重複するもの(田中義一、[[井上幾太郎]])もいた。陸士(旧8~11期)、陸大(8~11期)で上原の教え子であったものが多い。上原が参謀総長時代、教育総監は上原閥であり、陸軍大臣は山縣閥から選ばれていた。当時の[[軍事参議官]]の多くは上原閥、準上原閥であり、[[侍従武官長]](内山、奈良)も上原閥であったためである。
* 禿げ頭の将軍として逸話が多い。田中義一が大臣時代、田中の先を歩く禿げ頭の将軍がいた。同期の[[橋本勝太郎]]と勘違いした田中は「ハゲカツ!ハゲカツ!」と連呼して呼び止めた。「それは俺の事か」と振り向いたのが上原だったので、田中は平身低頭で謝罪し、上原は笑ってこれを許している。また、年長の将軍たちからは「和尚」と呼ばれた。名付けたのは浅田信興である。