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| 氏名 = 石川 節子
| ふりがな = いしかわ せつこ
| 画像 = 1912 Ishikawa Setsuko.jpg
| 画像サイズ = 250
| 画像説明 = [[石川啄木]]没後の節子([[大正]]元年)
| 出生名 = 堀合 節子
| 生年月日 = [[1886年]][[10月14日]]
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| 死没地 = [[北海道]][[函館市|函館区]]豊川町34番地(豊川病院)
| 死因 = 肺結核
| 墓地 = 北海道[[函館市]][[立待岬]]
| 記念碑 =
| 住居 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 出身校 = [[盛岡市]]立[[盛岡白百合学園中学校・高等学校|盛岡女学校]]
| 教育 =
| 職業 = [[代用教員]]
| 活動期間 =
| 雇用者 =
| 団体 = [[滝沢市|滝沢村]]立篠木尋常高等小学校<br />函館区立弥生尋常小学校
| 著名な実績 =
| 業績 =
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[[]]
== 生涯 ==
[[File:1909 Ishikawa Setsuko.jpg|thumb|300px|right|家出期間中の節子と堀合の家族(明治42年10月)。前列右より、堀合了輔、工藤その、石川京子、祖母キン、堀合ろく子、母の堀合とき子、堀合克巳、石井京。後列右より、堀合赳夫、父の堀合忠操、堀合孝子、堀合忠直、堀合ふき子、節子、高橋ノシ、宮社フシ(明治42年10月)]]
=== 死 ===
大正2年4月13日、浅草の等光寺において、与謝野寛、[[北原白秋]]、金田一京助、土岐哀果らを発起人として、61名が出席して啄木の一周忌の追悼会が行われた。この会で去る3月23日に、函館の啄木未亡人節子の代理として[[函館市中央図書館|函館図書館]]の[[岡田健蔵]]が上京して、等光寺に埋葬してあった啄木とカツの遺骨を、函館に持ち帰ったことを報告した<ref>[[#冷水(1968)|冷水(1968)]] pp.82-85</ref>。一方、函館図書館でも同じ日に啄木の一周忌の追悼会が催されている。宮崎郁雨、岡田健蔵が幹事となり、堀合忠操、斎藤大硯、岩崎正ら20名あまりが出席している<ref>[[#冷水(1968)|冷水(1968)]] p.88</ref>。この来会者の席上で、啄木と面識のない斎藤咀華が写真を参考にし、宮崎ら友人たちの意見も取り入れて、描いた肖像画の油絵が披露されている<ref name="山下157">[[#山下(2010)|山下(2010)]] p.157</ref>。追悼会の数日後、「苜蓿社」時代の啄木の友人・岩崎正は、この絵を一目節子に見せようと、岡田健蔵と連れだって病院を訪ねた<ref name="山下157" /><ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] p.214</ref>。岡田は絵を前にして、当日の様子について詳しく話し、これを機会に啄木会として「啄木文庫」を創設し、啄木の関係資料の収集や保存をしていくことを約束している。節子は啄木が残した日記、書簡および遺稿など一切を「啄木文庫」に託すことを言い残したと伝えられる<ref>[[#坂本(1998)|坂本(1998)]] p.464</ref>。病室の節子は痩せ衰え、正視できないほどだった。岩崎は節子が絵に見入るときの様子を、手記にこう書き記している<ref>[[#堀合(1974)|堀合(1974)]] pp.214-215</ref>。