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== 経歴 ==
父が[[キリキア属州]]総督に任命されると、小キケロもそれに伴った<ref>キケロ『アッティクス宛書簡集』、V, 9.3</ref>。[[紀元前50年]]に[[ロードス島]]、[[エフェソス]]、[[アテネ|アテナイ]]を経由してローマに戻った。[[紀元前34年]]。[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]と[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]の間に[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|内戦]]が勃発するが、小キケロは父と同じくポンペイウスに加担し、騎兵の一部隊を率いて大きな勇気を示した([[ティトゥス・リウィウス]]の『[[ローマ建国史]]』の概略には「キケロほど戦争に向いていない人間はいなかった」と書いてあるが、これが父子どちらかは不明である<ref>ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、Periochae 111.6/.</ref>)。[[ファルサルスの戦い]]でポンペイウスは敗北するが、カエサルはキケロ親子を許し<ref>Haskell, pgs. 103-104.</ref>、小キケロはアテナイで勉学を続けることができた。アテナイからキケロ家の[[解放奴隷]][[マルクス・トゥリウス・ティロ|ティロ]]に宛てた手紙には、ギリシア語での演説の練習をしていたことが書かれている。
 
カエサル暗殺後に[[三頭政治|第二回三頭政治]]([[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]、[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス|レピドゥス]])がローマで権力を掌握すると、[[プロスクリプティオ]](粛清リスト)を発表した。その中には、父は叔父、従兄弟とともに、小キケロの名前も含まれていた。小キケロ本人は逃れることができたが、それは「彼が[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]よりも早くギリシャに向かった」からである<rerref>アッピアノス『ローマ史:内戦』、Book IV, 20.</ref>。[[アッピアノス]]によれば、粛清開始を予想した父により東方に送られたという<ref name = R4>アッピアノス『ローマ史:内戦』、Book IV, 51.</ref>。この間に父はアントニウスの放った刺客により暗殺され、首だけでなく右手も切取られて、[[フォルム・ロマヌム\\に晒された。
 
ブルトゥスの軍に加わった小キケロは再び騎兵を指揮し、敵の1軍団を降伏させ、ビリダで[[ルキウス・アントニウス]](アントニウスの弟)を破った<ref name = R13>Broughton, vol. II. pg. 355</ref>。[[フィリッピの戦い]]での敗北の後、彼は他の逃亡者に混じってパルマのカッシウス・パルメシウスに加わり<rerref name = R13 /><ref>アッピアノス『ローマ史:内戦』、Book V, 2.</ref>、さらに三頭政治と戦っていた[[セクストゥス・ポンペイウス]](ポンペイウスの息子)の軍に加わった(前42年)<ref name = R4 /><ref>プルタルコス『対比列伝:ブルトゥス』、26.</ref>。
 
セクストゥスが[[ミセヌム条約]]で三頭政治と和睦すると、小キケロはオクタウィアヌスの支持者となり<ref>Goldsworthy</ref>、[[アウグル|鳥占官]]に任じられた<ref>Broughton, vol. II. pg. 425</ref>。小キケロは、一族の宿敵アントニウスとの戦いに積極的に参加し、オクタウィアヌスが[[アクティウムの海戦]]での勝利を伝えるためにローマに使者として送ったのも小キケロであった。この戦いに関するオクタウィアヌスの手紙を読んだ小キケロは、かつて父の首と右手が晒されたまさにその壇上にその手紙を置いた<ref>Ibid.</ref>。
 
紀元前30年、少キケロは補充執政官に就任する。執政官として彼はアントニウスの全ての像を撤去し、またアントニウス家のものがマルクスというプラエノーメンをつけることを禁じた<ref>プルタルコス『対比列伝:キケロ』、49.</ref>。執政官は途中離職したが、その後オクタウィアヌスは小キケロを[[シリア属州]]の[[レガトゥス]](総督代理)に任命し([[紀元前29年]] - [[紀元前27年]])、さらに[[紀元前23年]]には[[プロコンスル]](前執政官)権限で[[アシア属州]]の総督を務めた。
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=== 古代の資料 ===
*[[アッピアノス]]『ローマ史』
*[[ティトゥス・リェッレイス・パテルクルス]]『[[ローマ世界の歴建国]]
*[[カッシウス・ディオ]]『ローマ史』
*[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]]『[[博物誌]]』
*[[プルタルコス]]『[[対比列伝]]』
*[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]『ブルトゥス宛書簡集法律について
*マルクス・トゥッリウス・キケロ『弟クィントウス宛書簡集』
*マルクス・トゥッリウス・キケロ『アッティクス宛書簡集』
 
=== 研究書 ===
* Broughton, RT. Robert S., The Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1952. - Vol. II. - P. 558.(1952)
* Goldsworthy, Adrian The Roman Army at War: 100 Bc-Ad 200 Oxford 1998
* Klebs E. Antistius 46 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - Stuttg. : JB Metzler, 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 2558.
* Haskell, H.J. "This was Cicero." 1964:
* Klebs E. Antistius 47 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - Stuttg. : JB Metzler, 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 2558.
* Klebs E. Antistius 48 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft. - Stuttg. : JB Metzler, 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 2558-2559.
* Syme R. The Roman Revolution. - Oxford: Clarendon Press, 1939. - P. 568.
 
==関連項目==
*[[共和政ローマ執政官一覧]]
*[[共和政ローマ鳥卜官一覧]]
 
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{{s-bef|before=[[マルクス・アントニウス]] III<br />[[アウグストゥス]] III<br>補充:<br>[[マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌス]]<br>[[マルクス・ティティウス]]<br>[[グナエウス・ポンペイウス (紀元前31年の補充執政官)|グナエウス・ポンペイウス]]}}
{{s-ttl|title=[[共和政ローマ執政官一覧|補充執政官]](途中離職)|years=''正規執政官:<br>[[アウグストゥス]] IV''<br />[[マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官)|マルクス・リキニウス・クラッスス]](途中離職)<br>[[紀元前30年]]<br>補充執政官:<br />[[マルクガイウス・アンティスティウス・ウェトゥッリス (紀元前30年の補充執政官)|ガイウス・キケロアンティスティウスミノルウェトゥス]](途中離任)<br>[[ルキウス・サエニウス]]}}
{{s-aft|after=[[アウグストゥス]] V<br />[[セクストゥス・アップレイウス (紀元前29年の執政官)|セクストゥス・アップレイウス]]<br>補充:<br>[[ポティトゥス・ウァレリウス・メッサッラ]]}}
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[[Category:キケロ|*]]
[[Category:紀元前1世紀の古代ローマ人]]
[[Category:紀元前1世紀の聖職者]]
[[Category:アンティスティウス氏族|うえとうす かいうす 1]]
[[Category:執政官]]
[[Category:アウグル]]
[[Category:トゥッリウス氏族|きけろ まるくす みのる]]
[[Category:紀元前65年生]]
 
*[[ルキウス・アンナエウス・セネカ]]『ルキリウス宛書簡集』