「牧野の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
47行目:
 
=== 事後 ===
周軍は帝辛を追って朝歌まで攻め入り、帝辛は王宮に火を放って死んだ。発は帝辛の遺体に三本の矢を放ってから[[まさかり|鉞]]で首を落としたという。『[[書経|尚書]]』牧誓によれば、この日の[[干支]]は[[甲子]]であると記され、出土した[[青銅器]]銘文でも確認されている。ここに600年に及んだ殷王朝は倒れ、発は[[西 (王朝)|周]]王朝を開いて[[武王 (周)|武王]]として即位した。
 
牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、青銅器銘文や[[甲骨文]]においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。