「パーマネントウエーブ」の版間の差分

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[[ファイル:Ladiesfield1908.jpg|サムネイル|ネッスル社の初期のパーマネント器の広告。1908年]]
[[ファイル:Eugene Suter in 1920 with the machine which would make him famous.jpg|サムネイル|ユージン社のパーマネントマシンとEugene Suter。1920年]]
[[ファイル:Ushiyama Haruko.jpg|サムネイル|ユージン社でパーマネント技術を習得後、1924年に帰国し日本に紹介した[[牛山春子]](初代メイ牛山)。]]
[[ファイル:コールドパーマ (5967396222).jpg|サムネイル|コールドパーマの美容院]]
起源は[[20世紀]]初頭に[[ロンドン]]在住[[ドイツ人]]のカール・ネスラー(のち渡米しチャールズ・ネスラーに改名)が[[アフリカ]]を旅行した際に、女性が小枝に毛髪を巻きつけて川の泥を塗り太陽の熱で乾燥させ、小枝を取り除くと毛髪が巻かれているのを目撃したことによる。これを参考に開発したのが「ネッスルウェーブ」で、[[ホウ砂]]と高熱によってパーマを得る。この技術はその後アメリカで広く普及した。また当時より室温でパーマを得る手法の研究も進められており、[[1940年]]ごろアメリカで[[チオグリコール酸]]を使った現在のパーマの原型が完成した。この技術は加熱を用いないという意味で特に「コールドパーマ」と呼ばれ、現在も世界的主流となっている。
 
理屈としては化学的な作用を持つ薬剤 (多くは[[チオール基]]を持つもの) を使用し毛髪内で[[シスチン]]結合の[[還元]]・[[酸化]]など化学反応を意図的に起こす事で毛髪の構造・形状を変化させた上でそれらを固定する。使用する薬剤の主流は久しく[[チオグリコール酸]]や[[システイン]]を還元剤とした医薬部外品であったが日進月歩の開発側の下地と規制緩和の結果、次第に[[システアミン]]や[[ラクトンチオール]]などを還元剤とした化粧品分類のパーマ液も次々に商品化、昨今では[[チオグリコール酸]]や[[システイン]]、および促進剤としてのアルカリ剤の濃度を調整した結果、化粧品分類として認められるシステムも珍しいことではなくなった。[[サルファイト]]など[[チオール基]]を持たないシステム自体はコールドパーマ黎明期より開発・商品化されているが定着や再現性の観点から不利で、主流となりえなかった。
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== パーマに関する事柄 ==
[[ファイル:Ushiyama Haruko.jpg|サムネイル|ユージン社でパーマネント技術を習得後、1924年に帰国し日本に紹介した[[牛山春子]](初代メイ牛山)。]]
[[File:Ushiyama Haruko's beauty demonstration in Ginza Matsuzakaya 1928.png|thumb|[[銀座松坂屋]]での初代メイ牛山による講習会。牛山は1927年に銀座に輸入パーマ機を揃えた美容室を開店]]
* 日本に最初にパーマ技術を紹介したのは米国で学んだ[[ハリウッド美容室]]の[[初代メイ牛山]]こと牛山春子<ref name=zubiki>『写真でみる日本生活図引』第7巻、弘文堂、 1988-1989 p21</ref>。1935年頃、山野美容講習所(現[[山野美容専門学校]])創設者、[[山野愛子]]が日本初の国産パーマ機を導入して日本にパーマ技術を普及させた<ref name=zubiki/>。
* 日本では[[日中戦争]]([[支那事変]])が勃発した戦時下の[[1930年代]]後半以降、過度なお洒落は贅沢行為としてパーマに反対する運動が起こり、[[1939年]]には「パーマネントはやめませう(パーマネントはやめましょう)」と言う言葉<ref>[http://www.po-holdings.co.jp/csr/culture/bunken/muh/15.html 自粛させられたおしゃれ] ポーラ文化研究所 2017年9月22日閲覧</ref>が流行語にもなった。またこれと相前後して、日本の一部の地域の町会では「町会決議によりパーマネントの方は当町の通行をご遠慮ください」と言う立て[[看板]]まで設置された実例もあった<ref>[[京成電鉄]]「京成電鉄85年の歩み」より。</ref>。アメリカ・イギリスとの関係が悪化した1940年頃からパーマネントはいわゆる[[敵性語]]として「電髪(でんぱつ)」と言い換えられる場合もあった。
** しかし、パーマネント排斥運動自体は決して完全なものではなく、日中戦争を描いた[[内務省 (日本)|内務省]]と[[陸軍省]]が指導・後援する1940年4月17日公開の映画『[[暁に祈る|征戦愛馬譜 暁に祈る]]』では、序盤にヒロインである[[田中絹代]]演ずる資産家(牧場主)の娘らがパーマをかけ洒落た服装で[[乗馬]][[ピクニック]]をするシーンが存在している。
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* 最近では国内でデジタルパーマや[[エアウェーブ]]などパーマの呼び名も多様化しているが、それらの多くは商業的な差別化を図るための単一の業者による[[商標|商標名]]であることがほとんどで、サロン側がその名称をそのまま使用するケースも多く科学的・原理的な分類とは異なることに注意したい。
 
* 山野美容講習所(現[[山野美容専門学校]])創設者、[[山野愛子]]が日本人初のパーマ技術指導者として日本にパーマ技術を普及させた。
 
== 出典 ==