「パーヴェル・ラザレンコ」の版間の差分

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1995年9月から第一副首相、1996年5月から1997年7月まで首相。首相在任時、ラザレンコは、付加価値税を国家の独占とし、通貨改革を行い、ウクライナの通貨単位であるグリヴナを導入した。また、天然ガスの輸入・販売を自由化し、[[ユリア・ティモシェンコ]]に莫大な富をもたらす。
 
首相退陣後、ラザレンコは、当時の大統領[[レオニード・クチマ]]大統領に敵対した。1997年8月から[[ヴェルホーヴナ・ラーダ|最高会議]]内の「エドニスチ(統一)」会派の長。1997年9月、野党「フロマーダ」の党首に選出。1998年の最高会議選挙において、「フロマーダ」は、4%障壁を越えることができた。
 
1998年、スイスにおいて、金融詐欺の嫌疑で逮捕。[[保釈]]後、キエフに戻った。1999年2月9日、ウクライナ検察庁は、ラザレンコの不逮捕特権剥奪を最高会議に要求し、2月15日、彼は国外に逃れた。2月17日、最高会議は、ラザレンコの不逮捕特権剥奪を可決し、彼の逮捕に同意した。この議決後間もなく、「フロマーダ」は消滅し、[[ユリア・ティモシェンコ]]等、その元党員達は、新党「バチキフシチナ(祖国)」を創設した。検察庁の報告書によれば、ラザレンコは、欧州諸国に450万スイス・フランと200万米ドルの口座を不正に開設し、国家に200万ドル以上の損害を与えたという。
 
1999年2月20日、ラザレンコは、ニューヨークを訪れ政治亡命を要請したが、逆に新たな嫌疑により逮捕されてしまった。アメリカの司法において、彼には、総額3億ドルの[[資金洗浄]][[汚職]]及び詐欺の被疑事実が突きつけられている。現在、その後莫大な保釈金を払いされ、保護観察の身にある。2006年8月25日に裁判所は恐喝、資金洗浄、汚職及び詐欺の罪で禁固9年と罰金1000万ドルの判決を下した
 
ラザレンコの裁判は、2001年夏に始った。2001年9月、ウクライナ検事総長は、請負殺人への関与という新たな被疑事実をラザレンコに突きつけた。
 
== パーソナル ==