「バプテスト教会」の版間の差分

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{{仮リンク|ロバート・ブラウン (宗教家)|en|Robert Browne (Brownist)|label=ロバート・ブラウン}}により始まった英国国教会分離派の思想は、やがてジェネラル・バプテストの母教会の牧師[[ジョン・スミス (バプテスト牧師)|ジョン・スミス]](スマイス)に受け継がれる。スミスは{{仮リンク|トマス・ヘルウィス|en|Thomas Helwys}}に恩師として影響を与えたが、当時ウォーターランド派[[メノナイト]](大陸再洗礼派)との合併を考えていたスミスが、ヘルウィスに対して具体的にどれだけの影響を与えたかは、教理史的議論の決着がなされていない。世俗の権威についての説をめぐる対立から、スミスはヘルウィスによって破門される。後にヘルウィスらは[[1612年]]、[[ロンドン]]でジェネラル・バプテストの教会を立てた。ジェネラル(普遍)の名は普遍救済説を採るところからくる。これによれば[[イエス・キリスト|キリスト]]は万人の救いのために死んだと信じられる。
 
パティキュラー・バプテストは、元[[イングランド国教会]][[司祭]]であった{{仮リンク|ヘンリー・ジェイコブ|en|Henry Jacob}}牧師により発足した非分離派会衆主義教会から、より分離派的教会を求めて離脱した者らが、[[1642年]]に再浸礼を行って教会を新設したことにはじまった。この再浸礼は次のように伝えられている。離脱した者の一人リチャード・ブラントが[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の浸礼実践グループから指導を受けてロンドンに帰国し、まず離脱者の指導者ブラックロックに浸礼を授け、次にブラント自身がブラックロックに浸礼を受ける。そして、この2人が他の51名に浸礼を授けたとされている。そして[[1644年]]彼らは『{{仮リンク|第一ロンドン信仰告白|en|1644 Baptist Confession of Faith}}』を公表した。
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バプテストは当時イングランドで吹き荒れていた[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])で[[ニューモデル軍]]に入り込み、[[イングランド共和国]][[護国卿]][[オリバー・クロムウェル]]の腹心で[[アイルランド総督 (ロード・デピュティ)|アイルランド総督]][[チャールズ・フリートウッド]]が統治していた[[アイルランド]]を実質的に軍事支配した。しかし反カトリックなど過激な方向に走ったバプテストを危険視したクロムウェルの意向でフリートウッドが[[1655年]]にクロムウェルの息子[[ヘンリー・クロムウェル]]と交代させられるとバプテストは後援者を失い、過激派を遠ざけてアイルランドの安定を優先するヘンリーによりバプテストは排除された<ref>山本、P160 - P169。</ref>。
 
アイルランドから遠ざけられたとはいえバプテストはイングランド本国で宗教の要として扱われ、クロムウェルら[[独立派 (宗教)|独立派]]が推し進める宗教統合政策で、[[ピューリタン]]諸宗派の中でも独立派・[[長老派教会|長老派]]・バプテストを中心として、[[1654年]]に聖職者の資格審査と不適格とされた聖職者追放を担う{{仮リンク|審査委員会|en|Commission of Triers}}と追放委員会が設置、国教会に代わる国家教会制度が共和国で構想され重要性が増した。国家教会の周縁に国家から許された宗派を並立させることも重要視されたが、この構想は[[クエーカー]]・アナバプテスト・[[第五王国派]]など他の宗派から非難され、クエーカーは政府から弾圧されてもひるまず、娯楽を禁じる厳格な道徳政策は庶民の心を政府から離れさせ、従来の国教会の礼拝は密かに続けられ国家教会制度はあまり浸透しなかった<ref>田村、P48P46 - P51、P53、清水、P244 - P247。</ref>。
 
やがて[[1658年]]にクロムウェルが死亡、息子の[[リチャード・クロムウェル]](ヘンリーの兄)が軍の圧力で翌[[1659年]]で護国卿を辞任すると国家教会制度も終わり、[[1660年]]の[[イングランド王政復古|王政復古]]で国教会が復活、バプテストは弾圧される立場に転落していった。[[1688年]]の[[名誉革命]]に伴う翌[[1689年]]の{{仮リンク|寛容法 (1689年)|label=寛容法|en|Toleration Act 1689}}でバプテストは信仰の自由を認められたが、それは国教会の優位を前提として政府に忠誠を誓った上での条件付きだった。また同年にバプテストはロンドンで各地の教会代表を集めて総会を開催、[[1677年]]に制定した[[第二ロンドン信仰告白]]を教派として公認した<ref name="松村54">松村、P54。</ref><ref>清水、P246 - P247、大西、P181 - P193。</ref>。
 
18世紀ではパティキュラー・バプテストが増大、ジェネラル・バプテストの方は多くの信者が[[ユニテリアン主義]]に変わり、残りは[[1770年]]に新組織を結成したが長く続かず、パティキュラー・バプテストと接触し[[1813年]]に{{仮リンク|バプテスト連合|en|Baptists Together}}を結成した。そして[[1891年]]に両派は合体して現在に至る<ref name="松村54"></ref>。