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== エピソード ==
* 1930年12月、「耕作」を「耕筰」に改名すると発表した。戸籍上は長らく「耕作」のままであったが、1956年に再婚したのをきっかけに「耕筰」に改めている。1948年に発表したエッセイ「竹かんむりの由来」(『山田耕筰著作全集 3』岩波書店に所収)によると、「山田耕作」と同姓同名の人物が多く(全国に100人以上いたという)、それゆえのトラブルが頻発していたのが、改名の理由の一つである。もう一つは、山田の指揮姿を見た[[颯田琴次]]から、後頭部の髪の乱れを指摘され、[[かつら (装身具)|カツラ]]をつけろと言われた後である。カツラを嫌った山田は丸坊主にしたものの、その姿を気に入っておらず、それで名前の上にカツラをかぶせることを考えた。竹かんむり=ケケ(毛毛)というわけである。「筰」の字は『[[康煕字典]]』から見つけたものである。
* 山田は、[[1913年]](大正2年)以降、自分の名前のアルファベット表記を「Kósçak Yamada」としている。エッセイ「竹かんむりの由来」によると、ベルリンの出版社から山田の歌曲集を出版することになった際、出版社の人間から「Kosaku」という名前を笑われたのだという。「コーザクーというとコーザ(イタリア語で「物」「何」)の牝牛(クー)だというのだ」そうである<!--(「ザ」となっているのは、ドイツ語では母音を伴う単独のsは原則として/z/で発音するため——引用者注)← 不要。イタリア語で"cosa"は「コーザ」-->
* 「[[カルピス]]」の商品名・社名は、同社創業者・[[三島海雲]]から相談を受けた山田が「最も響きがよく、大いに繁盛するだろう」とアドバイスしたことで決まったものであるとされる<ref>{{cite web|url=http://www.calpis.co.jp/corporate/history/story/3.html|title=3.「カルピス」の命名|work=企業情報|publisher=カルピス|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120420001058/http://www.calpis.co.jp/corporate/history/story/3.html|archivedate=2012-04-20|accessdate=2020-11-05}}</ref>。
* 代表作の題名にもなっている「[[ペチカ (曲)|ペチカ]]」とはロシア風の暖炉のことで、後にロシア人の実際の発音を聞いた山田は、歌うときには「ペイチカ」と発音されることを望んだという。
* 1955年に公開された映画「[[ここに泉あり]]」(監督:[[今井正]])に本人役で出演している。また、劇中で「赤とんぼ」の演奏と、子供たちによる歌唱が行われている。
* 関東大震災による都市の火災被害に衝撃を受け、本業の楽団運営問題に悩まされていた時期にもかかわらず、1924年から翌年にかけて実弟の山田鐵雄と共に日本の狭い街路に適応する、輸入[[オートバイ]]をベースとした小型[[日本の消防車|消防車]]の開発を推進。[[オート三輪]]型の試作車を完成させて、1925年8月には[[上野恩賜公園]][[不忍池]]で自ら公開放水実験、百尺以上の放水距離を実現させた。同年12月7日付で、鐵雄の名義で実用新案公告(第21738号)に至っている<ref>{{Cite book|和書 |author=佐々木烈 |year=2012 |title=日本自動車史 写真・史料集 |publisher=三樹書房 |page=484 |isbn=978-4-89522-591-5}}</ref>。しかし当時の日本では輸入品の大型消防自動車がようやく主要都市で導入され始めたばかりで時期尚早であり、事業化などのそれ以上の発展はないままに終わった。日本におけるこの種の小型消防ポンプ車の本格普及は、太平洋戦争後のことになる。
* [[昭和]]26年([[1951年]])の[[雑誌]]『[[主婦の友]]』8月号付録「夏の西洋料理」で山田独自の[[すき焼き]]が紹介されている。[[合い挽き]]肉とみじん切りにした[[タマネギ]]と[[卵黄]]をすり合わせて皿に平にのばし、とりやすいように筋目を入れる。たっぷりの[[バター]]で炒めた[[野菜]]の下に敷き、[[砂糖]]を加え野菜で蓋をしたように煮る。肉の色が変わったら肉と野菜を混ぜて[[ビール]]をひたひたに注ぎ、煮立ったら[[醤油]]を加えて食べる。山田が[[ドイツ]]に[[留学]]([[1910年]]から3年間)していた頃に[[ドイツ料理]]の[[ハンバーグ]]から発想を得て考案したと思われる料理であり、「肉の下拵えが[[長崎]]風なので、お蝶夫人になぞらえて、スキヤキ・アラ・バタフライと紹介するのだが、一度食べるとその味が忘れられないらしく、会うたびに、またあのバタフライを……と頻繁な御注文なんですよ」と外国人にも好評だったという。
* 自身も犬嫌いの[[團伊玖磨]]と犬好きの[[遠藤周作]]との対談「ペルシャ犬を連れ歩く」(『週間読売』1972年7月)によれば、大の犬嫌いだった。
* 一方で女性関係にルーズで、色めいた噂にも事欠かず、宴席での[[猥談]]や[[猥歌]]も有名だったと言われている。弟子の[[高木東六]]は「宴席では三分の二以上が猥談だったと聞いた」と、同じく弟子の[[團伊玖磨]]は「現代なら[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]で社会から葬られてる」とそれぞれ話している。しかし山田の話術が巧みだったこともあり、その話の中にあまり卑猥な感じは与えられなかったという<ref>{{Cite web |url=https://bunshun.jp/articles/-/37487 |title=朝ドラ「エール」に初登場 志村けんと山田耕筰の“意外な共通点”|publisher=[[週刊文春]] |date=2020-0405-3001 |accessdate=2020-04-30 |author=辻田 真佐憲 |website=文春オンライン}} 原出典:{{cite journal |和書 |journal=[[文藝春秋]] |date=2000年1月号「-01 |title=山田耕筰 : 現在ならセクハラで社会から葬られています」、}} {{cite book |和書 |author=高木東六著書『 |title=愛の夜想曲 |publisher=講談社 |year=1985}}</ref>。
 
== 代表的な作品 ==