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{{政治家
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'''ポール・エドワード・パットン'''(英語:{{lang-en-short|Paul Edward Patton}}、[[1937年]][[5月26日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[実業家]]・[[政治家]]である、実業家1995年12月12日から2003年12月9日まで59第51[[ケンタッキー州知事の一覧|ケンタッキー州知事]]を務めた。1992年にケンタッキー州憲法を修正したことで、約200年振りに連続して2期を務めた州知事となった<ref>ケンタッキー州が州になった初期の2代目州知事である[[ジェイムズ・ゲアリド]]が連続2期(1796年 - 1804年)を務めていた。</ref>2010年初期から、[[パイクビル (ケンタッキー州)|パイクビル]]にあるパイクビル大学の学長を務めており、2009年から2011年までケンタッキー州高等教育委員会の議長も務めた。
 
パットンは1959年に[[ケンタッキー大学]]を卒業した後、20年間炭坑を経営して裕福な実業家になった。1970年代後半に炭坑の持ち株の大半を売却して政界に入り、[[ジョン・Y・ブラウン・ジュニア]]知事の閣僚を短期間務め、州[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の議長となった。1981年、[[パイク郡 (ケンタッキー州)|パイク郡]]の郡判事執行役に選出された。1987年に[[ケンタッキー州副知事|副知事]]に立候補して落選したが、次の1991年には当選し、[[ブレレトン・ジョーンズ]]知事の下で副知事と経済開発長官を同時に務めた。
 
その4年後、パットンは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]のラリー・フォージーを破って州知事に当選した。知事として1期目の主要な業績は、州立[[コミュニティ・カレッジ]]と工業学校をケンタッキー大学とは独立にし、それらをケンタッキーコミュニティ・工科カレッジ体系に組み込むなど、高等教育機関を点検したことがあった。1999年の再選を求めた選挙では大した抵抗もなく再選されたが、その直ぐ後で、民主党上院議員2人が共和党に鞍替えし、史上初めて共和党が同院の多数派となった。パットンの1期目を成功に導いた1990年代の好況は、2000年代初期の不況で萎んだ。敵対的な議会と切迫した経済予測に直面し、パットンは2期目には重要な法案の多くを法制化することができず、2002年には婚外情事や利益のためのセックスとされるスキャンダルが暴露され、その立場が悪化した。パットンは当初この情事を否定していたものの、のちにはそれを認めた。それでもその地位を使って女性の利益になることを提供したことについて否定を続けた。その任期の後半で、ケンタッキー州の選挙資金法に違背して告発された政治的助言者4人に恩赦を出したこと、さらに権限を使った人事を悪用したとされたことで攻撃された。これらスキャンダルが続いたことで、それ以上の政治的大志を追求できなくなった。
 
== 初期の経歴 ==
1937年5月26日に[[ケンタッキー州]]フォールズバーグにて、室内には水道・電気・電話も無い改装されたサイロで誕生した<ref name=nga>"[http://www.nga.org/portal/site/nga/menuitem.29fab9fb4add37305ddcbeeb501010a0/?vgnextoid=7a66ae3effb81010VgnVCM1000001a01010aRCRD&vgnextchannel=e449a0ca9e3f1010VgnVCM1000001a01010aRCRD Kentucky Governor Paul E. Patton]". National Governors Association</ref><ref name=mueller>Mueller, p. A1</ref>。父はウォード・パットン、母はイレーヌであり、その3人の子供達の中で唯一の男の子だった<ref name=blanchard251>Blanchard, p. 251</ref>。教師だった父は毎年のように異なる学校に赴任させられたので、家族は引っ越しが多かった<ref name=mueller />。父が[[パイク郡 (ケンタッキー州)|パイク郡]]の鉄道会社に雇われたとき、子供達の学校が終わるまで妻がフォールズバーグに残るということで、夫婦の間に合意ができた<ref name=mueller />。パットンは生まれ故郷の教室が4室だけのフォールズバーグ小学校に通った<ref name=mueller />。[[4Hクラブ]]で活動し、大衆に向かって話す能力を身につけて行った<ref name=mueller />。1951年、ルイーザ市のルイーザ高校に入学した<ref name=mueller />。優等生であり、演劇部に入り、アメリカンフットボールと野球の選手となり、上級生のときは級長だった<ref name=mueller /><ref name=blanchard251 />。1955年、73人いた同級生の中で3位の成績で卒業した<ref name=blanchard251 />。
 
高校を出ると、ケンタッキー大学に入学し、1956年に学生自治会の役員になろうとしたが落選した<ref name=hod />。2年生を終えた後、[[フロイド郡 (ケンタッキー州)|フロイド郡]]の炭坑運営者の娘キャロル・クーリーと結婚した<ref name=mueller />。この夫婦にはニッキとクリストファーという2人の子供が生まれた<ref name=blanchard252 />。パットンは大学を終えるために義父から金を借り、1959年には機械工学分野で工学士の資格を得た<ref name=nga /><ref name=mueller />。後にルイビル大学から公共事業の名誉博士号を贈られた<ref name=cpe />。
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パットンの2期目は石油リサイクル計画を開始し、デイケアセンターにおける母子家庭の母に対する事業計画を確立した<ref name=nga />。新しい監獄の建設と、500万ドルをかけた郡庁舎の改修を監督した<ref name=blanchard253>Blanchard, p. 253</ref>。郡では初の製造工場を誘致し、地区倉庫から市民に砂利、配水管、橋板を分け与える慣習を止めさせた<ref name=blanchard253 />。その他の判事執行役の優先事項の中には、地方道の建設と施設の再生があった<ref name=hod />。
 
1987年、パットンは[[ケンタッキー州副知事|副知事]]選挙に出馬した<ref name=nga />。混戦だった予備選挙では、当選した[[ブレレトン・ジョーンズ]](189,058票)、2位の検事総長デイビッド・L・アームストロング(147,718票)に次いで3位(130,713票)だったが、州上院議員のデイビッド・ボスウェルや公衆指導監督官アリス・マクドナルドよりは上位になった<ref name=blanchard253 />。その時点まででケンタッキー州でも最も金のかかる予備選挙となり、パットンはその個人資産から200万ドル以上を遣ったが、300万ドル以上をつぎ込んだジョーンズの方が上回っていた<ref name=blanchard253 />。1979年の副知事候補[[マーサ・レイン・コリンズ]]が遣ったのは14万ドル、1983年の[[スティーブ・ベッシャー]]は25万ドルだったので、如何に金が必要だったかが分かる<ref name=ellers35>Ellers, p. 35</ref>。
 
パットンは落選した後にパイク郡に戻った。1989年、判事執行役に3選された。このときは3人が立った予備選挙で70%パーセント以上を得票し、本選挙でも3対1に近い大差で当選した<ref name=blanchard252 />。パットンは即座に1991年の副知事選挙に向けて準備を始めた<ref name=ellers31>Ellers, p. 31</ref>。選挙戦の初期では、パットンの炭坑では坑夫達が南部労働者同盟に入っていたので、アメリカ鉱業労働者連盟がパットンをうるさく攻撃した<ref name=ellers31 />。スキッパー・マーティンがパットンをトラック運転手組合の指導者に紹介し、パットンは彼らと協力してパイク郡の労働者を組合に入れた<ref name=ellers31 />。ケルシー・フレンドとも協力して、経済的に落ち込んだ田園部にある会社を財政的に支援するケンタッキー州田園経済開発法を通した<ref name=ellers32>Ellers, p. 32</ref>。
 
=== 副知事 ===
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{{Succession box|title=ケンタッキー州副知事民主党指名候補|before=[[ブレレトン・ジョーンズ]]|after=[[スティーブ・ヘンリー]]|years=1991年}}
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{{Succession box|title= {{Flagicon|Kentucky}} [[ケンタッキー州副知事]]|before=ブレレトン・ジョーンズ|after=スティーブ・ヘンリー|years =1991 第51代:1991年12月10日 – 1995年12月12日}}
{{Succession box|title= {{Flagicon|Kentucky}} [[ケンタッキー州知事]]|before=ブレレトン・ジョーンズ|after=[[アーニー・フレッチャー]]|years =1995 第59代:1995年12月12日 – 2003年12月9日}}
{{Succession box|title= [[全米知事協会|全米知事会議]]議長|before=[[ ジョン・イングラー]]<br>ミシガン州|after=[[ ダーク・ケンプソーン]]<br>アイダホ州|years= 2002年7月16日- 2003年8月19日}}
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{{ケンタッキー州}}