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'''イブラーヒーム・パシャ'''(Ibrahim Pasza, [[1789年]] - [[1848年]][[11月10日]])は、[[エジプト]]、[[ムハンマド・アリー朝]]の第2代君主(在位:1848年)。[[オスマン帝国]]のエジプト総督([[ワーリー]], 在任:1848年)。非常に優秀な政治家、軍人でエジプトの近代化に多大な貢献をした。
 
*1789年 [[オスマン帝国]]領(現在の[[ギリシャ]]の[[マケドニア (ギリシャ)|マケドニア]]地方)の都市[[カヴァラ (ギリシャ)|カヴァラ]]で[[ムハンマド・アリー]]と正妻アミーナ・ハネムの間に長男として生まれる。
== 年譜 ==
*1808年 16歳で父親の補佐のため[[カイロ]]に渡る。
*1789年 [[オスマン帝国]]領(現在の[[ギリシャ]]の[[マケドニア (ギリシャ)|マケドニア]]地方)の都市[[カヴァラ (ギリシャ)|カヴァラ]]で[[ムハンマド・アリー]]と正妻アミーナ・ハネムの間に長男として生まれる。
*1809年 人質として[[イスタンブール]]に送られ、帝国の混迷をみて幻滅する。
*1808年 16歳で父親の補佐のため[[カイロ]]に渡る。
*1810年 エジプトに戻り、財務長官になる。財政基盤の確立に貢献する。
*1809年 人質として[[イスタンブール]]に送られ、帝国の混迷をみて幻滅する。
*1818年 [[オスマン・サウジ戦争|アラビア戦役]]に従軍。遠征軍の司令官になり、すぐれた軍事的才能を発揮する。[[第一次サウード王国]]を攻略、滅亡させる。
*1810年 エジプトに戻り、財務長官になる。財政基盤の確立に貢献する。
*1832年 {{仮リンク|エジプト・オスマン戦争(1831年-1833年)|en|Egyptian–Ottoman War (1831–1833)|label=第1次シリア戦役}}([[エジプト・トルコ戦争]])で活躍。
*1818年 [[オスマン・サウジ戦争|アラビア戦役]]に従軍。遠征軍の司令官になり、すぐれた軍事的才能を発揮する。[[第一次サウード王国]]を攻略、滅亡させる。
*1833年 [[歴史的シリア|シリア]]の統治者となる。近代化政策を敷くが地元の反発を招いた。
*1832年 {{仮リンク|エジプト・オスマン戦争(1831年-1833年)|en|Egyptian–Ottoman War (1831–1833)|label=第1次シリア戦役}}([[エジプト・トルコ戦争]])で活躍。
*1839年 {{仮リンク|エジプト・オスマン戦争 (1839年-1841年)|en|Egyptian–Ottoman War (1839–1841)|label=第2次シリア戦役}}を勝利に導く。
*1833年 [[歴史的シリア|シリア]]の統治者となる。近代化政策を敷くが地元の反発を招いた。
*晩年 ヨーロッパ諸国を歴訪して大歓迎を受ける。
*1839年 {{仮リンク|エジプト・オスマン戦争 (1839年-1841年)|en|Egyptian–Ottoman War (1839–1841)|label=第2次シリア戦役}}を勝利に導く。
*1848年 父親の後を継ぐが、11月に病死する。子の[[イスマーイール・パシャ|イスマーイール]]は幼いため、甥の[[アッバース・パシャ]]が後を継いだ。
*晩年 ヨーロッパ諸国を歴訪して大歓迎を受ける。
*1848年 父親の後を継ぐが、11月に病死する。子の[[イスマーイール・パシャ|イスマーイール]]は幼い為、甥の[[アッバース・パシャ]]が後を継いだ。
 
== 外部リンク ==