「オットー・フォン・ハプスブルク」の版間の差分

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[[1952年]]、[[フランシスコ・フランコ]]からスペイン王位の打診があったが、オットーはこれを謝絶した{{Sfn|岩﨑(2017)|p=388}}。
 
[[1955年]]5月15日、オーストリアと連合国との間で[[オーストリア国家条約]]が締結された。オーストリアとドイツとの合邦を禁止する条項が主な内容であるが、その国家条約の中には再びハプスブルク家の復位を禁止する条項が盛り込まれていた{{Sfn|ジェラヴィッチ|p=230}}。これはソ連の意向が強く反映された結果ともいわれる。この条約によってオーストリアは独立を回復したが、独立後のオーストリアにオットーの居場所はなかった。オットー以下、ハプスブルク家の人々はふたたび国外追放の身となった。[[1956年]]、オットーは[[下オダーエトリアターライヒ州]]政府によりオーストリア市民として認知され、「オーストリアを除く全ての国で有効な」オーストリアのパスポートを与えられた。
 
なお、[[ハンガリー第二共和国|ハンガリー]]でもソ連の影響力が強まり大戦当時のホルティ政権ではなくなっていたことから、ハプスブルク家の復位を検討するという話は立ち消えになっていた。オーストリアにおいてもハンガリー等においても、ハプスブルク家は現実政治における存在感をほぼ喪失した。