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昭和30年代以降になると、詩人や作曲家らによって従来の「童謡」(文学童謡)に代わる新たな児童歌曲を作ろうとする機運が高まり、様々な運動が興った。その例としては「'''新しいこどものうた'''」を推奨する作曲家グループ「[[ろばの会]]」による運動がある。これ以後、人気を博していた少女歌手たちは次第に姿を消し、以降の児童歌曲の多くは成人歌手によって発表されるようになった。この時期には[[日本放送協会|NHK]]の『[[みんなのうた]]』や『[[おかあさんといっしょ]]』などから生まれた子供向け歌曲なども人気を博した。
 
この頃から、子供向けの[[テレビドラマ]]や[[アニメーション]]の流行により、ドラマ・ヒーロー番組の主題歌や[[アニメソング]]が子供たちの愛唱歌として広まり、狭義の「童謡」は次第に下火になっていく<ref>海沼実『童謡 心に残る歌とその時代』238-244頁。</ref>。[[1969年]](昭和44年)には[[日本童謡協会]]が創設された。
 
その後の児童歌曲については「[[ママとあそぼう!ピンポンパン|ピンポンパン体操]]」([[1971年]](昭和46年)、作詞:[[阿久悠]]、作曲:[[小林亜星]])、「[[およげ!たいやきくん]]」([[1975年]](昭和50年)、作詞:[[高田ひろお]]、作曲:[[佐瀬寿一]])や「[[山口さんちのツトム君]]」([[1976年]](昭和51年)、作詞・作曲:[[みなみらんぼう]])、「[[だんご3兄弟]]」([[1999年]](平成11年)、作詞:[[佐藤雅彦 (メディアクリエーター)|佐藤雅彦]]、作曲:内野真澄)のような単発ヒット曲はあるものの、終戦直後の童謡ブームに比して概ね低調であった。[[日本作曲家協会]]が企画する[[日本レコード大賞]]に童謡賞部門が設けられていたのは、第1回(1959年)から第15回(1973年)までで、その終了年度は「最後の童謡作曲家」と呼ばれた[[海沼實]]の三回忌であった。折しも日本童謡協会の初代会長[[サトウハチロー]]の没年も重なり、大正時代から続く狭義の「童謡」(文学童謡)が終わりを告げた時期でもあった。
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[[1980年代]]後半頃からは中高年層を中心とした大人の間で「童謡人気」が高まったこともある<ref>「童謡ブーム 主役は大人」『[[朝日新聞]]』1988年7月11日付東京朝刊、12版、13頁。</ref><ref>「おとなたちに静かな童謡ブーム」『朝日新聞』1988年10月26日付東京朝刊、12版、17頁。</ref><ref>『オリコン年鑑 1988年版』、[[オリコン・エンタテインメント|オリジナルコンフィデンス]]、1988年、35頁。ISBN 4871310205</ref>。
 
税法上、レコードのジャンルを童謡にすると[[物品税]](1989年4月1日に廃止)が免除された為に、[[アニメソング]]を童謡扱いする[[レコード会社]]もあった。
 
== 「童曲」 ==