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→‎人柄と影響: 横書きの発生
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[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|thumb|upright|明治天皇の最も有名な肖像画。イタリア人画家[[エドアルド・キヨッソーネ]]によって描かれた[[:en:Conté|コンテ]]画を[[丸木利陽]]が写真撮影したもの([[1888年]]〈[[明治]]21年〉1月)|リンク=Special:FilePath/Emperor_Meiji_color.jpg]]
[[ファイル:HIH Princess Higashikuni Toshiko.jpg|thumb|upright|第九皇女[[東久邇聡子]]]]
* 明治天皇は、本格的な右横書きの日本最古の例が1862年と考えられている中で<ref>[https://core.ac.uk/download/pdf/230540776.pdf 東京女子大学比較文化研究所『東京女子大学比較文化研究所紀要 第64巻』pp.23-10、 2003年、屋名池誠「横書きの成立 日本語表記のエポック」p.28]</ref>、文久元年(1861年)、数えで10歳の習字の御手習い際<ref>[https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000719900000/48ff4e5bb90f419facde60a785a6bc5c 宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム、明治天皇宸筆『明治天皇宸翰御手習并御清書』文久元年11月25日]</ref>、「梅花」を右横書きで書いていた<ref>[[水原紫織]]『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』2020年、ヒカルランド</ref>。なお、日本語の横書きの発生については、「日本語の横書きが、幕末・明治初期に、欧米の言語・文字との接触によって生じたものである<ref>[https://core.ac.uk/download/pdf/230540776.pdf 東京女子大学比較文化研究所『東京女子大学比較文化研究所紀要 第64巻』pp.23-10、 2003年、屋名池誠「横書きの成立 日本語表記のエポック」p.25]</ref>」と、考えられている。
* 「明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴」として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、どれほど寒冷な日でも暖房は[[火鉢]]1つだけ、暑中も軍服(御服)を着用し続け執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。
** 皇太子嘉仁親王(後の[[大正天皇]])のための住居として建築された赤坂の東宮御所(現在の[[迎賓館]])の完成を報告しに来た[[片山東熊]]に「華美過ぎる」と発言し、片山は「そのショックで、病気がちになった」という。