削除された内容 追加された内容
校正をしました。
21行目:
{{mapplot|135.804111|34.692333|法華寺}}
[[ファイル:Hokkemetsuzainotera nandaimon.jpg|thumb|南門]]
'''法華寺'''(ほっけじ)は、[[奈良県]][[奈良市]]法華寺町にある光明宗の本山の[[寺院]]。[[奈良時代]]には[[日本]]の総[[国分尼寺]]とされた。[[山号]]はなし。[[本尊]]は[[十一面観音]]、[[開基]]は[[光明皇后]]である。元は[[真言律宗]]に属したが、[[1999年]]([[平成]]11年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。
 
== 歴史 ==
34行目:
法華寺は[[平安京]]遷都以後は次第に衰微し、[[平安時代]]末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録から伺える。[[治承]]4年([[1180年]])の[[平重衡]]の兵火では[[東大寺]]、[[興福寺]]が炎上し、法華寺も被害を受けたという。
 
[[鎌倉時代]]に入り、[[東大寺大仏殿]]の再興を果たした僧・[[重源]]は、[[建仁]]3年([[1203年]])、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の[[木造]]仏頭は、この再興時の本尊[[毘盧遮那仏|廬舎那仏]](るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の[[真言律宗]]の僧・[[叡尊]]によって本格的な復興がなされた。
 
その後、[[明応]]8年([[1499年]])12月、大和国に攻め込んできた[[細川政元]]の家臣[[赤沢朝経]]によって焼き討ちされると、[[永正]]3年([[1506年]])7月、再び攻め込んできた赤沢朝経によってまたも焼き討ちされた。そのうえ[[文禄]]5年([[1596年]])には[[慶長伏見地震]]にもあって、最終的には東塔以外の建物を失った。
 
現在の本堂、鐘楼、南門は[[慶長]]6年([[1601年]])と翌年に[[豊臣秀頼]]と母の[[淀殿]]が[[片桐且元]]を奉行として復興したものである。なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は[[宝永]]4年([[1707年]])の地震で倒壊した<ref>橋本・山岸、pp19 - 38</ref><ref>町田、pp327 - 329</ref>
 
[[江戸時代]]になり、[[後水尾天皇]]の養女・高慶尼が入寺して以来、当寺は尼[[門跡]]寺院となった。
 
[[宝永]]4年([[1707年]])、これまで兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔が地震によって倒壊している<ref>橋本・山岸、pp19 - 38</ref><ref>町田、pp327 - 329</ref>。
 
法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、[[1999年]]([[平成]]11年)に創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立した。
 
[[2010年]](平成22年)5月6日 - 8日には光明皇后1250年大遠忌法要が実施された。
 
境内の南側には天王宮法華寺神社がある。
 
== 境内 ==
* [[本堂]]([[重要文化財]])
: 寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。[[慶長]]6年([[1601年]])、[[豊臣秀頼]]と[[淀殿]]の寄進で再建された。堂内厨子に本尊[[十一面観音]]像を安置する。高欄の擬宝珠(ぎぼし)に慶長6年の銘があり、当時は「講堂」と呼ばれていたことがわかる。[[慶長伏見地震]]の復興事業として建てられたもので、再建にあたっては、地震で倒れた前身建物の2棟の部材が再利用されている。部材に残る痕跡から復元される前身建物は、1棟が[[鎌倉時代]]、もう1棟が[[室町時代]]の建物で、前者が旧・金堂、後者が旧・講堂にあたると推定されている<ref>橋本・山岸、pp49 - 56</ref>。
* [[鐘楼]](鐘楼堂)(重要文化財)
: 豊臣秀頼と淀殿により再建。鬼瓦に慶長7年([[1602年]])の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられる。ただし、本堂と同様に、前身建物のものとみられる古い部材も混在している。二層建てとし、上層に鐘を吊る「袴腰付き鐘楼」であるが、上層に縁や高欄を設けない、珍しい形式とする<ref>橋本・山岸、pp46 - 49</ref>。
* 護摩堂
* 南門(重要文化財) - 切妻造・本瓦葺の四脚門で慶長6年([[1601年]])、豊臣秀頼と淀殿により再建。
[[ファイル:140531 Hokkeji Nara Japan16s3.jpg|thumb|浴室(からぶろ)]]
[[ファイル:140531 Hokkeji Nara Japan24o.JPG|thumb|華楽園]]
:* 寄棟造、瓦葺き。正面7間、側面4間。堂([[重要文化財]]) - [[慶長]]6年([[1601年]])[[豊臣秀頼]]と[[淀殿]]の寄進でにより[[片桐且元]]を奉行として再建された。寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。堂内厨子に本尊[[十一面観音]]像([[国宝]])を安置する。高欄の擬宝珠(ぎぼし)に慶長6年の銘があり、当時は「講堂」と呼ばれていたことがわかる。[[慶長伏見地震]]の復興事業として建てられたもので、再建にあたっては、地震で倒れた前身建物の2棟の部材が再利用されている。部材に残る痕跡から復元される前身建物は、1棟が[[鎌倉時代]]、もう1棟が[[室町時代]]の建物で、前者が旧・金堂、後者が旧・講堂にあたると推定されている<ref>橋本・山岸、pp49 - 56</ref>。本尊の厨子は、特別公開期間以外は閉ざされているが、普段は代わりに[[松久朋琳]]作のご分身像が厨子の前に安置されている
* 赤門(東門)
* 護摩堂 - [[2004年]]([[平成]]16年)再建。
* 客殿 - 本堂裏手にある[[書院造]]建築。
:* 鐘楼(鐘楼堂、重要文化財) - 慶長7年([[1602年]])豊臣秀頼と淀殿により片桐且元を奉行として再建。鬼瓦に慶長7年([[1602年]])の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられる。ただし、本堂と同様に、前身建物のものとみられる古い部材も混在している。二層建てとし、上層に鐘を吊る「袴腰付き鐘楼」であるが、上層に縁や高欄を設けない珍しい形式とする<ref>橋本・山岸、pp46 - 49</ref>。
* 庭園 - 国の[[名勝]]に指定されている。
* 慈光殿
* 薬師堂
* [[稲荷神社]]
* 横笛堂 - かつて南門を出て左側の飛地境内にあったが、赤門の東側に移築されている。『[[平家物語]]』や[[高山樗牛]]の小説『[[滝口入道]]』で知られる悲恋物語のヒロイン・横笛が尼となった後に住んだとされる建物。横笛が手紙の反故(ほご)で自らの姿を作ったという伝承のある張り子の横笛像(高さ約30センチメートル)が安置されていたが、本堂に移されている。室町時代以前に建てられたもので、当寺に現存する建物の中で最も古い
* 庭園「華楽園」
 
* 浴室(からぶろ)([[重要有形民俗文化財]]) - [[光明皇后]]が千人の垢を自ら流したという伝説のある蒸し風呂である<ref>[http://www.nara-np.co.jp/graph/gra031026_house.html 法華寺浴室(からふろ)(奈良市)]</ref>。それ以来古例に倣って尼僧ではなく庶民のために使用していたとされる。現存の建物は[[江戸時代]]の[[明和]]3年([[1766年]])再建のものである。建造物としてではなく、民俗文化財として国の指定を受けている。
* 茶室「慶久庵
* 光月亭
* 中門
* 慶久庵
* 東室
* 華楽園 - 庭園。
* 光月亭(奈良県指定有形文化財) - [[奈良県]][[添上郡]][[月ヶ瀬村]](現・[[奈良市]])大字月ヶ瀬にあった旧東谷家住宅を[[1971年]]([[昭和]]46年)に移築したもの。
* 東書院
* 高照会館
* 庫裏
* 玄関(奈良県指定有形文化財) - [[寛文]]13年([[1673年]])再建。
* 慈光殿
* 客殿上の御方(奈良県指定有形文化財) - [[江戸時代]]前期築。
* 庭園(国指定[[名勝]]) - 江戸時代前期の作庭。
** 前庭
** 内庭
** 主庭
* 仔犬の庭
* 土蔵
* 慈光殿 - [[1979年]](昭和54年)建立。宝物殿。
* 南門(重要文化財) - 切妻造・本瓦葺の四脚門で慶長6年([[1601(1601]]豊臣秀頼と淀殿により片桐且元を奉行として再建。切妻造・本瓦葺の四脚門
* 赤門(東門) - 江戸時代中期築。
* 天王宮法華寺神社 - 法華寺の南にある鎮守社。
 
== 十一面観音像 ==
[[File:Hokkeiji Nunnery Eleven-Headed Kwannon I (303).jpg|thumb|180px|十一面観音像]]
国宝。法華寺の本尊。像高1.00メートル。本堂の厨子内に安置する。平素は非公開で、春と秋に期日を限って開扉される。「[[天竺]]([[インド]])の[[仏師]]・[[問答師]]が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承をもつが、実際の制作は平安時代初期、[[9世紀]]前半と見られる。この伝承は『興福寺濫觴記(らんしょうき)』にみられるもので、それによると、乾陀羅国(今の[[パキスタン]]北部、[[ガンダーラ]])の見生王は生身(しょうじん)の観音を拝みたいと熱望していた。王はある夜の夢で「生身の観音を拝みたければ日本の光明皇后を拝めばよい」と告げられたので、問答師という仏師を日本へ遣わした。問答師は光明皇后をモデルに3体の観音像を造り、そのうちの1体が法華寺の観音であるという。<!-- 本像の風貌や全体のプロポーションにはどこか女性的・異国的なものを感じさせることから、このような伝承を生んだものであろう。 -->
 
像は[[カヤ]]材の一木造。保存状態もよく、平安時代彫刻を代表する作品の1つである。制作当初から彩色や金箔を施していない素木像で、髪、眉、ひげなどに群青、唇に朱、白目に白色を塗り、瞳、肩に垂れる髪、冠や腕釧などに銅板を用いるほかは、木肌の美しさを生かした素地仕上げとする。両手首から先や天衣の遊離部分など、ごく一部を別材とするほか、頭・体の主要部から、蓮華座の中心部分、その下の心棒まで一材から彫り出した一木造である。経典には十一面観音像は檀像、つまり香木の[[ビャクダン]](白檀)を用いて造るべきことが説かれているが、ビャクダンを産しない日本では、カヤ材で素木仕上げの像を檀像とみなしていた。本像も檀像として造られたものと思われる。台座は像の蓮華の下を1本の細い茎で支える、珍しい形式のものである。光背も他にほとんど例をみない形式のもので、[[ハス]]の未開の花と葉を表している。この光背は[[1905年]]([[明治]]38年)の補作だが、古い光背を踏襲して造ったものである。
82 ⟶ 94行目:
* 木造十一面観音立像 - 解説は前出。
* 木造[[維摩居士]]坐像 - [[奈良時代]]末期。[[2017年]]度に[[国宝]]に指定<ref>平成29年9月15日文部科学省告示第112号</ref><ref>[http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2017031002.html 国宝・重要文化財の指定について] {{ja icon}} - ([[文化庁]]サイト)</ref>
:* 絹本著色[[阿弥陀三尊]]及び童子像 - 平安時代末 - 鎌倉時代初期の仏画。3幅からなり、正面向きの阿弥陀如来のみを大きく表した1幅、向かって右向きの観音菩薩と勢至菩薩を表した1幅、幡を持つ童子を表した1幅がある。サイズは阿弥陀如来幅が185.5x146.1センチ、観音・勢至菩薩幅が186.4x173.6センチ、童子幅が183.3x55.2センチである。阿弥陀如来像と他の2幅とでは、様式や表現形式に差がみられ、阿弥陀像は正面向きに静的に表現されるのに対し、観音・勢至像と童子像には動きが感じられる。阿弥陀像は着衣の文様や台座蓮弁の筋などを朱線で描き、金銀色を用いないのに対し、観音・勢至像と童子像には金泥や截金が用いられ、色彩も具色(中間色)を用いている。諸尊がいずれも雲上に表されることなどから、本作は阿弥陀来迎図として制作されたとみられるが、阿弥陀像の印相は来迎印ではなく説法印である。勢至菩薩像が合掌する形でなく、幡蓋を持つ形に表される点も図像的に特異である。以上のことから、これら3幅を一具の作とみるかどうか、またどのような場所や用途で用いられた作品であるかについては諸説ある。[[奈良国立博物館]]に寄託<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝』59号([[朝日新聞社]]、1998)、pp.'''5''' - 280 - '''5''' - 281(解説筆者は[[有賀祥隆]])</ref>。
* 絹本著色[[阿弥陀三尊]]及び童子像
: 平安時代末 - 鎌倉時代初期の仏画。3幅からなり、正面向きの阿弥陀如来のみを大きく表した1幅、向かって右向きの観音菩薩と勢至菩薩を表した1幅、幡を持つ童子を表した1幅がある。サイズは阿弥陀如来幅が185.5x146.1センチ、観音・勢至菩薩幅が186.4x173.6センチ、童子幅が183.3x55.2センチである。阿弥陀如来像と他の2幅とでは、様式や表現形式に差がみられ、阿弥陀像は正面向きに静的に表現されるのに対し、観音・勢至像と童子像には動きが感じられる。阿弥陀像は着衣の文様や台座蓮弁の筋などを朱線で描き、金銀色を用いないのに対し、観音・勢至像と童子像には金泥や截金が用いられ、色彩も具色(中間色)を用いている。諸尊がいずれも雲上に表されることなどから、本作は阿弥陀来迎図として制作されたとみられるが、阿弥陀像の印相は来迎印ではなく説法印である。勢至菩薩像が合掌する形でなく、幡蓋を持つ形に表される点も図像的に特異である。以上のことから、これら3幅を一具の作とみるかどうか、またどのような場所や用途で用いられた作品であるかについては諸説ある。[[奈良国立博物館]]に寄託<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝』59号([[朝日新聞社]]、1998)、pp.'''5''' - 280 - '''5''' - 281(解説筆者は[[有賀祥隆]])</ref>。
<gallery>
File:Kannon-seishi.jpg|[[観音菩薩]](右)・[[勢至菩薩]](左)
110 ⟶ 121行目:
 
=== 国の名勝 ===
* 楽園 - 庭園
* 法華寺庭園 - [[江戸時代]]前期の作庭。前庭、内庭、主庭で構成される。
 
=== 重要有形民俗文化財 ===
117 ⟶ 128行目:
=== 奈良県指定有形文化財 ===
[[ファイル:140531 Hokkeji Nara Japan18s3.jpg|thumb|光月亭]]
* 玄関
* 客殿上の御方
* 光月亭
 
151 ⟶ 164行目:
** 春季 3月20日 - 4月30日
** 秋季 10月24日 - 11月12日
 
 
== アクセス ==