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== 生涯 ==
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[[トラキア]]生まれで[[トラキア人]]<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>の帝国軍人であったが、東ローマ皇帝[[マルキアヌス]]が没した後、帝国の[[ゲルマン人]]軍事長官であった[[アスパル]]によって皇帝として擁立された。このような即位の経緯から、治世前期のレオ1世はアスパルとその息子
レオ1世はローマ帝国の共同統治者として[[西ローマ帝国]]での主導権をも望み、[[467年]]には[[アンテミウス]]を、[[474年]]には[[ユリウス・ネポス]]を西ローマ皇帝と宣言して西ローマ帝国へ送り込み、自らが任命したアンテミウスとユリウス・ネポス以外の西ローマ皇帝を正式な皇帝とは認めなかった<ref name="松原2010LeoI" />。こうした介入の結果、西ローマ帝国は東ローマ皇帝の介入から決別するべく、レオ1世の死の2年後の[[476年]]に西ローマ皇帝の地位の廃止を宣言した。
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