「内村祐之」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
14行目:
1919年(大正8年)4月初めの、一高と三高の試合はマスコミに派手に取り上げられた<ref>「野球もできる、学問もできる」と一高の投手として内村の顔写真が新聞に掲載された。:内村美代子(1985)、190-199ページ</ref>。
 
1921年(大正10年)4月7日に東京帝国大学3年生の時に[[東京ステーションホテル]]で[[内村美代子|久須美美代子]]と婚約をする。仲人は父鑑三の先輩[[伊藤一隆]]だった。内村はスター選手だったので、マスコミに取り上げられて波紋を呼んだ<ref>6月22日の朝日新聞には「内村選手に鑑三翁の嫁選び、眼鏡にかないしみよ子嬢、神にかしずく目白の才嬢」と題する写真入りの五段抜きの記事が掲載された。内村美代子(1985年)、199ページ</ref>。
 
1923年(大正12年)春に、東京帝国大学を卒業して、精神科を志望して東大医局に入局した。しかし、約一ヵ月後に、[[呉秀三|呉教授]]に申し出て、東京府立松沢病院の医員になった。父の鑑三は祐之にワルター・スピールマイヤーの『精神系の組織病理学』を卒業記念に贈った<ref>父内村鑑三は「魂の医師の次に、心の医師が内村家に出るのはいいことだ」と心から喜び、また「心の悩みを解決するのは宗教と医学との共同作業だ」と言っていた。:内村美代子『晩年の父内村鑑三』(1985年),22-23ページ</ref>。 それと平行して、学生野球の指導も行っていた。
[[File:Kanzo Uchimura and his family 1924.jpg|thumb|right|結婚直後の27歳の内村と妻美代子と父鑑三と母静子、1924年12月]]
1924年(大正13年)11月29日伊藤一隆の媒介と[[大島正健]]の司式の元で、東京ステーションホテルで久須美美代子と結婚式を挙げる。
 
その後、北海道大学から招聘があったが、北海道大学には精神科講座の準備が整っていなかったので、1925年(大正14年)から文部省の海外研究員として2年間ドイツの[[ミュンヘン]]に留学する。カイゼル・ウィルヘルム研究所([[マックスプランク研究所]])で[[スピールマイヤー]]に師事する<ref>斎藤茂吉が前年に同じ研究所で同じスピールマイヤーに師事していたので、出発前に内村夫妻宅を訪れている。:内村美代子(1985年)40ページ</ref>。 その際[[エミール・クレペリン|クレペリン]]や[[エルンスト・クレッチマー|クレッチマー]]などとも交流をもった。内村の留学中の1926年(大正15年)妻美代子は長女正子を出産する。