「ワシーリー・スターリン」の版間の差分

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[[1952年]][[7月27日]]、トゥシノで空軍記念日を祝って[[モスクワ軍管区]]の空軍部隊による観閲飛行が行われた。責任者であるワシーリーは父スターリンに見栄を張りたいと考えてか、悪天候の中にも関わらず強引に[[B-29 (航空機)|B-29]]のコピーである[[Tu-4 (航空機)|Tu-4]]爆撃機を飛行隊に参加させ、結果として1機のTu-4が墜落事故を起こした。観閲飛行での失態に加え、観閲終了後にスターリンの別荘で行われた会合にも参加せず、度重なる乱行に愛想を尽かした父と空軍によって遂に司令官を解任された。
 
解任から暫くして[[ヨシフ・スターリンの死と国葬|スターリンが病没]]すると、後ろ盾を失いつつあったワシーリーは1953年4月28日に国家反逆罪の容疑で逮捕された。彼は「外国の通信員に会ったら全部話してやる」と息巻いていたといい、この発言が徒となって[[スパイ]]疑惑が持たれた。裁判ではこれまでの行為に対する断罪も行われ、党指導部に対する中傷、反ソヴィエト的な言動、及び軍務怠慢や汚職などの追及を受けた。調査責任者を務めた検察官[[レフ・ウラドジミンスキー]]は反逆者への無慈悲な捜査方針で知られており、拷問こそされなかったが苛烈な尋問を行い、ワシーリーは実際には無関係であった罪状まで全て自白させられている。
 
1953年12月、彼の庇護者であったベリヤがスターリン死後の政治闘争に敗れて処刑される。新たに台頭した[[ニキータ・フルシチョフ]]はスターリン派に対する粛清を進め、ワシーリーの立場は益々悪化していった。彼は[[ゲオルギー・マレンコフ]]やフルシチョフに温情ある決定を嘆願したが、聞き入れられず略式裁判で懲役8年が言い渡された。ワシーリーの身柄は連邦最高会議幹部会の指示によって警戒厳重なウラジミールスキー・ツェントラル刑務所(ウラジーミル中央刑務所)に送られ、そこでは'''ヴァシーリー・パヴロヴィチ・ヴァシリエフ'''(Vasily Pavlovich Vasilyev)と名乗らされた。