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* 中日ドラゴンズ (2019 - )
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'''工藤 隆人'''(くどう たかひと、[[1981年]][[3月30日]] - )は、[[青森県]][[黒石市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]])。左投左打。現在は[[中日ドラゴンズ]]の二軍外野守備走塁コーチ<ref>{{Cite web |title=中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト - ドラゴンズニュース ★コーチングスタッフ決定のお知らせ |url=
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[青森県立弘前実業高等学校|弘前実業高校]]時代は1年の夏に[[外野手]]のレギュラーを獲得し<ref name="
[[青森大学]]では[[細川亨]]の1学年下で、4年生次には[[竹原直隆]]([[城西大学]])や[[鞘師智也]]([[東海大学]])らとともに外野手として{{by|2002年}}の[[第1回世界大学野球選手権日本代表]]に選ばれている。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]([[JR東日本硬式野球部]])では同い年で同期入社の[[小山良男]]と共に[[都市対抗野球大会|都市対抗]]などに出場した。
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'''{{by|2006年}}'''、二軍で83試合に出場し、打率.282、1本塁打、9盗塁(チームトップ)を記録したが、一軍での出場はなかった。[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では40人枠に入ったが、ベンチ入りはかなわなかった。
'''{{by|2007年}}'''、二軍で打率.379、1本塁打、15盗塁(チームトップ)の活躍が認められ、6月19日の対[[広島東洋カープ|広島]]戦でプロ初[[安打]]となる[[三塁打]]を放ち、ここから4打数連続安打、[[スターティングメンバー|スタメン]]3試合で7安打とアピール。これをきっかけに一軍に定着し、シーズン中盤以降[[左翼手]]のレギュラーとして活躍した。打率.288、9盗塁を記録してチームの優勝に貢献した。チームの優勝決定後、消化試合となった9月30日と最終戦の10月3日には、主力を外した若手主体のオーダーながら自身初となる4番打者として先発出場し、1番と9番以外の全打順でスタメン出場した。このシーズンの公式戦で工藤が打点を上げた11試合は全てチームが勝利するなど、飛躍のシーズンとなった。ポストシーズンの[[2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第3戦・第5戦でも打点を挙げてチームの勝利を導いたが、[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第2戦で打点を挙げながら敗れ、「不敗神話」は13でストップした<ref name="
'''{{by|2008年}}'''、5月3日に、4打数4安打3打点の大活躍で、[[ヒーローインタビュー]]を受けた。また、前年の5月3日にも活躍しており、この出来事がきっかけで工藤の背番号も5月3日にかけた53だったことから5月3日は「工藤の日」と称された。前年の72試合を大きく超える104試合に出場したが、左翼手に新外国人選手の[[ターメル・スレッジ]]が加入したことに加え、自身の打撃の調子も今ひとつ上がらず、代走や守備固めでの起用が中心になった。シーズン終了後の11月14日、[[二岡智宏]]・[[林昌範]]との交換トレードにより、[[マイケル中村]]とともに[[読売ジャイアンツ]]に移籍。背番号は'''35'''に決まった。
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'''{{by|2010年}}'''、ルーキーの[[長野久義]]の加入により外野手争いがより激しくなり、出場機会を得られず前年よりも少ない40試合の出場に終わった。
'''{{by|2011年}}'''、開幕を二軍で迎えた。一軍出場のないまま、6月29日に[[サブロー]]と工藤+金銭の交換トレードで[[千葉ロッテマリーンズ]]に移籍<ref>{{Cite web
=== ロッテ時代 ===
[[File:Kudo takahito.jpg|thumb|200px|2011年8月6日、QVCマリンフィールドにて]]
移籍後は[[大松尚逸]]の不振もあって、レフトでスタメン出場の機会を得、夏場には[[伊志嶺翔大]]、[[岡田幸文]]と鉄壁の外野陣を形成した。一方打撃では打率.200と低調で、[[清田育宏]]の復帰や[[角中勝也]]の台頭で9月以降はスタメンの座を奪われた。しかし、シーズン途中の加入ながら53試合に出場し、巨人時代よりも出場機会を増やした。シーズン終了後、トレード相手の大村三郎(サブロー)がFAでロッテに復帰することとなったため、それに伴い背番号が'''25'''に変更された<ref>{{Cite web
'''{{by|2012年}}'''、開幕一軍入りしたが、角中勝也の台頭や、6月に[[荻野貴司]]が復帰するのと入れ替わりで二軍落ちとなった。そのまま再登録されることなくシーズンを終え、前年の出場試合数の半分にも満たない24試合の出場に終わった。また、代走や守備固めでの起用がほとんどだったため打席に立つ機会はほとんどなく、打率.167、シーズン中の安打は僅か1本に留ま
'''{{by|2013年}}'''、開幕を二軍で迎え、プロ2年目の[[2006年]]以来となる一軍出場なしに終わり、10月3日に球団から戦力外通告を受けた<ref>
=== 中日時代 ===
[[File:2015D62.jpg|thumb|200px|2015年の工藤]]
その後、[[12球団合同トライアウト]]を受け、[[落合博満]]GMの目に留まって[[中日ドラゴンズ]]の秋季キャンプに参加し、入団テストを受けて入団が決まった。背番号は'''62'''<ref>
'''{{by|2014年}}'''、開幕一軍を勝ち取り、主に[[代走]]として出場機会を得ていたが、4月5日の[[読売ジャイアンツ]]戦で代走出場の際に右足を負傷し登録抹消となった。シーズン終盤から再び1軍に合流すると、8月28日の横浜DeNAベイスターズ戦で10年目にしてプロ初本塁打を放った<ref>
'''{{by|2015年}}'''、この年は僅か13試合に留まり、打率も.167、安打1本と低迷した。
'''{{by|2016年}}'''、開幕を一軍で迎え、閉幕まで一度も二軍に降格することなく、キャリア2番目の74試合に出場した<ref>
'''{{by|2017年}}'''、この年もほぼ1年を通して代打や守備固めとして1軍に同行し、中日入団以降では最多の82試合に出場した<ref>
'''{{by|2018年}}'''、
=== 引退後 ===
2018年10月29日、中日の一軍外野守備走塁コーチに就任することが発表された<ref>{{Cite news |url=http://dragons.jp/news/2018/18102902.html |title=来季コーチングスタッフのお知らせ |publisher=中日ドラゴンズ 公式サイト |date=2018-10-29 |accessdate=2018-11-03}}</ref>。
[[2020年の野球|2020年]]からは、二軍外野守備走塁コーチに配置転換<ref>{{Cite web |title=中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト - ドラゴンズニュース ★来季コーチングスタッフのお知らせ |url=http://dragons.jp/news/2019/19112301.html |website=dragons.jp |accessdate=2020-12-17}}</ref>。
== 選手としての特徴 ==
[[50メートル競走|50メートル]]5.8秒の俊足で<ref name="y05">{{Cite book|和書 |author= |year=2005 |title=野球小僧 世界野球選手名鑑2005 |publisher=白夜書房|pages=33頁|id=ISBN 4-86191-015-3}}</ref>、俊足を生かした守備を見せる<ref name="y05
== 詳細情報 ==
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* 初打点:2007年7月7日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]9回戦([[札幌ドーム]])、8回裏に[[小林宏之 (野球)|小林宏之]]から一塁適時内野安打
* 初盗塁:2007年7月13日、対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]13回戦([[宮城球場|フルキャストスタジアム宮城]])、4回表に二盗(投手:[[アダム・バス]]、捕手:[[嶋基宏]])
* 初本塁打:2014年8月28日、対[[横浜DeNAベイスターズ]]19回戦([[ナゴヤドーム]])、7回裏に[[三浦大輔]]から右越3ラン
=== 背番号 ===
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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