「オランダ東インド会社」の版間の差分

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関係人物イサク・デ・ピント
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→‎歴史: 株主の1/4はユダヤ人
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[[16世紀]]後半、[[スペイン]]と対立し、同国と[[八十年戦争]]を行っていたオランダは、スペインによる貿易制限、船舶拿捕など、経済的に打撃を受けていた。当時、東南アジアの[[香辛料]]取引で強い勢力を有していた[[ポルトガル]]が、[[1580年]]にスペインに併合されていたことで、ポルトガルの[[リスボン]]などを通じた香辛料入手も困難になっていた。こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要があった。1595年から1597年までの航海を通じて[[ジャワ島]]の[[バンテン王国|バンテン]]との往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させた。しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残された。さらに、[[1600年]]に[[イギリス東インド会社]]が発足したことは、この懸念を深めさせた。
 
こうした中、[[ホラント州]]の政治家で[[プロテスタント]]の[[ヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト|オルデンバルネフェルト]]は、複数の商社をまとめて'''連合東インド会社'''を発足させ、諸外国に対抗しようとした。6つの支社(カーメル・{{Lang-nl|kamer}})から構成されており、それぞれは[[アムステルダム]]、[[ホールン]]、[[エンクハイゼン]]、[[デルフト]]、[[ロッテルダム]]、[[ミデルブルフ]]に置かれた。
 
===設立後===
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1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸で{{仮リンク|ゴワ王国|en|Gowa Regency}}との戦争に突入し、1669年に{{仮リンク|スペルマン|en|Cornrlius Speelman}}提督が、スルタンの{{仮リンク|ハサヌディン|en|Hasanuddin of Gowa}}に、オランダ東インド会社のスラウェシ島支配に関する{{仮リンク|ボンガヤ条約|en|Treaty of Bongaja}}を署名させた。1665年から1667年にかけての[[英蘭戦争#第二次英蘭戦争|第二次英蘭戦争]]で、[[バンダ諸島]]([[東インド諸島]][[モルッカ諸島]])にある[[ラン島]]([[香辛料貿易]])と[[マンハッタン島|ニューアムステルダム]]([[毛皮貿易]])の自治権と交換して獲得し、香辛料貿易([[ナツメグ]]、[[クローブ]]等)の独占を図った。イギリスは既に種子を持ち出しており、[[1815年]]頃から[[モーリシャス]]や[[グレナダ]]などでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになった。
 
北ホラント州のプロテスタントの船主が創立したオランダ東インド会社は、18世紀末までには[[ユダヤ人]]が同社の4分の1の株を手中に収め、南北ホラント州の 主要な株主となる<ref>[http://nzetc.victoria.ac.nz/tm/scholarly/tei-GolHist-t1-body1-d2.html Victoria University of Wellington '''THE HISTORY OF THE JEWS IN NEW ZEALAND''', 2016, ''CHAPTER II — THE JEWS COME TO HOLLAND'']</ref><ref>[[水原紫織]]『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』2020年、ヒカルランド、p.57</ref>。
 
18世紀には3度に渡るジャワ継承戦争(1703年・1719年・1749年)や[[華僑虐殺事件 (バタヴィア)|華僑虐殺事件]]によって、マタラム王国が四分割され、ジャワ島での支配体制も確固たるものとなった。
 
オランダ本国は、オランダ東インド会社が[[17世紀]]の成功によって黄金時代を迎えていた一方で、衰微の兆しが訪れていた。[[17世紀]]半ばの3次にわたる[[英蘭戦争]]や[[絶対王政|絶対主義]][[フランス王国]]との戦争で[[国力]]を消耗し、1689年に[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ヴィレム3世]]がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡した。以後イギリスが[[大英帝国]]として、海上[[覇権]]を確立する事になる。1795年にはフランス革命軍により本国を占領された。この混乱のなかで[[1799年]][[12月31日]]、オランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。[[ナポレオン戦争]]後、オランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになる。
 
== 組織構造 ==
=== 最初の株式会社 ===