「オランダ東インド会社」の版間の差分

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=== イサク・デ・ピント ===
[[ポルトガル]]生まれの[[ユダヤ人]]イサク・デ・ピント(1717〜1787)は、1748年にオラ ンダ東インド会社の取締役に就任した。翌年には[[オランダ西インド会社]]の取締役に就き、[[英国]]の総[[公債]]の22%に相当する巨額の融資を英国に対して行った。<ref>[[水原紫織]]『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』2020年、ヒカルランド、pp.63-64</ref><ref>[https://archive.jewishcurrents.org/august-14-isaac-de-pinto-and-the-dutch-east-india-company/  '''Jewish Currents AUGUST 14''', 2016, Lawrence Bush, ''ISAAC DE PINTO AND THE DUTCH EAST INDIA COMPANY'']</ref>
 
=== アベル・ヤンスン・タスマン ===
「『太平洋に一つの大きな島があって、黄金が豊富で、[[ユダヤ人]]が住んでいる』という噂があり、[[バタヴィア]](ジャカルタ)を植民地支配するオランダ東インド 会社の総督は、1642年、アべル・ヤンスン・タスマン(1603〜1659)に、[[ヨット]]のヘイムスカーク号とフライボートのツィーハン号を指揮して黄金が豊富な島発見の航海に出るよう命じた。するとタスマ ンは、その航海にユダヤ人の乗組員や操舵係を採用した。そしてニュージーランドまで到達したが、金もユダヤ人も見つからなかったとされている。」(ヴィクトリア大学ウェリントン校ウエブページ<ref>[http://nzetc.victoria.ac.nz/tm/scholarly/tei-GolHist-t1-body1-d2.html Victoria University of Wellington '''THE HISTORY OF THE JEWS IN NEW ZEALAND''', 2016, ''CHAPTER II — THE JEWS COME TO HOLLAND'']</ref>からの和訳を『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾<ref>[[水原紫織]]『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』2020年、ヒカルランド、p.58</ref>』p.58より引用)
 
ところがタスマンは、すでに1639年にはオランダ人探検家のマテ ィス・クワスト(〜1641)の指揮のもと、二艘の船で日本の東にあると信じられていた島を探 しに日本周辺にも来ている。しかも日本周辺の探検から戻るとまもなく、探検ではなく貿易のために[[長崎]]の[[出島]]に着任している<ref>[[水原紫織]]『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』2020年、ヒカルランド、p.59</ref>。
 
== 主要年表 ==