「コンスタンティヌス2世」の版間の差分

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== 略歴 ==
皇帝[[コンスタンティヌス1世]]とファウスタ([[マクシミアヌス]]帝の娘)の間に長男(コンスタンティヌス1世には前妻ミネルウィナとの間に長男[[クリスプス]]がいる為、コンスタンティヌス1世から見れば次男)として生まれるが、母親は不義密通の罪で処刑された。[[宦官]]が取り仕切る宮廷内で他の2人の兄弟とともに育てられる。335年以前に結婚したことが記録から知られている。
 
337年5月22日に、21歳の時(異説あり)、父コンスタンティヌス1世が死去しその葬儀が[[コンスタンティノープル]]で行われたが、滞在地の距離から参加しなかった。葬儀のしばらく後(9月)で、コンスタンティノープルにいる親族は[[粛清]]された(首謀者はおそらく次男コンスタンティウス2世)。その後、3人の兄弟は会談を行い、9月9日に揃って即位した。コンスタンティヌス2世は帝国全土に及ぶ権威を有していたが、実際には3人が独立君主として政治を行った。コンスタンティヌス2世は[[ブリタンニア]]、[[ガリア]]、[[ヒスパニア]]を統治していたが、三弟コンスタンス1世に北アフリカの領土の分割を要求した。拒否されたためアルプスを越えて、弟の領土へ攻め込んだ。340年春、北イタリアへ侵攻するが、事前の準備が不十分だったことから[[アクィレイア]]近くで行われた戦闘で捕らえられ、殺害された。治世は僅か3年足らずであった。没年齢は20代前半から20代半ばと推定される。子孫は残していない
 
== 捏造疑惑 ==