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しかしその後、「相良定頼并一族等所領注文」に見られるように、平河氏は永吉庄の半分175町を相良定頼へ給される形で失ってしまう。これは永吉庄、すなわち平河氏が少弐頼尚に属していたためであり、具体的な時期について明言はないが、同状には「一色殿御下文目録」との裏書が認められることから作成年代は建武三年の一色範氏九州赴任から、延文三年の一色直氏上洛までの間に想定される。加えて「相良氏系図」によれば、相良定頼は正平十二年に日向国の地を賜ったとあり、前出の注文には「(少弐)頼尚跡」は永吉庄のほか日向国にも及んでいたことが記されていることから、これらの少弐頼尚没官領が定頼へ給されたのであれば、平河氏が永吉庄の半分を失ったのはこのとき、すなわち延文二年/正平十二年である可能性が指摘できよう。
 
これを裏づける可能性として、面田氏の存在がある。藤原姓を名乗る面田氏は、文和二年九月二十八日、和泉国二条堀河院の東にて面田を名字とし、その後安芸国を経て文安六年に球磨郡永吉庄内の面田村(現あさぎり町免田か)へ移ってきたというが、球磨郡内における面田氏の所領は自身が下向してくる以前の延文三年九月二十八日にまで遡り、いずれも「孫三郎あと」「又三郎のあと」「五郎三郎あと」などの没官領であることを窺わせている。
 
以降、平河氏は相良氏の下風へ立たされる。永和元年八月十二日、菊池郡水嶋(現熊本県菊池市七城町水島か)に在陣し、近郊の目野嶽(現熊本県山鹿市鹿央町米野岳か)を経て肥前国横大路(現佐賀県神埼市神崎町の横大路城か)・小城(佐賀県小城市小城町の小城城か)と転戦している平河左衛門尉師頼は、(相良)近江守前頼をして惣領と称している。さらに応永二年には平河尾能三郎が相良実長より名字書出を受け(高頼)、同三十四年には平河式部が相良前続から人吉庄屋な瀬(現相良村柳瀬か)・永吉庄深田(現あさぎり町深田か)などの各所で給分を受けており、相良氏の被官と化していることが確認される。
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|康平6
|この年
|この年 良峯師澄、肥後国球磨郡へ下向という
|『求麻外史』
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