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以降、平河氏は相良氏の下風へ立たされる。永和元年八月十二日、菊池郡水嶋(現熊本県菊池市七城町水島か)に在陣し、近郊の目野嶽(現熊本県山鹿市鹿央町米野岳か)を経て肥前国横大路(現佐賀県神埼市神崎町の横大路城か)・小城(佐賀県小城市小城町の小城城か)と転戦している平河左衛門尉師頼は、(相良)近江守前頼をして惣領と称している。さらに応永二年には平河尾能三郎が相良実長より名字書出を受け(高頼)、同三十四年には平河式部が相良前続から人吉庄屋な瀬(現相良村柳瀬か)・永吉庄深田(現あさぎり町深田か)などの各所で給分を受けており、相良氏の被官と化していることが確認される。
{| class="wikitable"
|+平河氏関係年表
|+
!年号
!月日
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|『求麻外史』
|-
|久寿元
|この年
|平河三郎師高(隆)、現熊本県球磨郡あさぎり町深田西に有智山寺(内山萬福寺)を建立という
|「平河文書」12
|+-
|文治3
|6.16
|平河師高、源頼朝より所領を安堵されるという
|「平河文書」4・5
|-
|文治5
|7.17
|平河次郎師貞、京都大番役へ勤仕するよう命ぜられるという
|「平河文書」4・5
|-
|建久2
|5.3
|(平川師高、領地を子息師貞へ譲与)
|「平河文書」1
|-
|建久3
|この年
|平河師貞、大江広元より肥後国球磨庄安富領内三善ならびに西村両所の預所職を安堵されるという
|「平河文書」4・5
|-
|建久8
|この年
|鎌倉御領永吉300(350の誤記)町地頭に「良峯師高子息平紀(河の誤写か)平次」の名あり
|「相良家文書」2
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|建永2
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|3.14
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|平河四郎師忠、領内の目良生・永池ほか一所分の所当を京都へ送るよう命ぜられる
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|「永池文書」1
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|}