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{{神社
|名称=鶴見神社
|画像=[[ファイル:Tsurumijinjya.JPG|250px]]<br />殿正面
|所在地=[[大阪府]][[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]][[鶴見 (大阪市)|鶴見]]3-丁目13-76
| 緯度度 = 34 | 緯度分 = 42 | 緯度秒 = 4.4 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 135 |経度分 = 33 | 経度秒 = 55.3 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| 地図 = Japan Osaka
|祭神=[[大山咋神]][[荒魂・和魂|荒魂]]
|社格=旧[[村社]]
|創建=[[保元]]3年([[1158年]])
|本殿=[[春日造]]
|別名= 八王子社(旧称)
|札所等=
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|神事=
}}
'''鶴見神社'''(つるみじんじゃ)は、[[大阪府]][[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]にある[[神社]]。旧[[社格]]は[[村社]]。[[滋賀県]][[大津市]][[坂本]]に鎮座する[[日吉大社]]を本社としている。
 
== 祭神 ==
; 主祭神
*[[大山咋神]][[荒魂・和魂|荒魂]](おおやまぐひのかみあらみたま)
:ご祭神は日吉大社の牛尾宮([[八王子山]]に祭祀されている)大山咋神荒魂を主祭神し、相殿に八方の各方位を司るとされた八王子([[八王子権現]])を祀っている。
 
== 歴史 ==
[[延暦]]7年([[788年]])、[[最澄]]は現在の[[延暦寺]][[根本中堂]]の位置に一乗止観院という草庵を建てた。これが延暦寺の始まりであるが、最澄の没後、[[天台宗]]は[[円仁]]派と[[円珍]]派に分かれて激しく対立するようになった。[[正暦]]4年([[993年]])、円珍派の僧約千名は山を下りて[[園城寺]]([[三井寺]])に入り、円仁派の延暦寺と対立し抗争を続けた。その影響は、[[比叡山]]の麓に鎮座する[[日吉大社]]にも及ぼした。[[平安時代]]末期、その抗争に嫌気をさした[[近江国]][[坂本 (大津市)|下阪本村]]比叡辻の農民17人が[[河内国]]の当地に移住して開拓し、郷里の名前を取って当地を辻村(下辻村)と呼び始めた。「鶴見神社(八王子神社)縁起」や「小林家旧記」よると、そのとき時、[[保元]]3年([[1158年]])に郷里の日吉大社の東本宮(祭神は[[大山咋神・おおやまぐひのかみ]])の元宮である牛尾山(八王子山)の八王子社([[八王子権現]])の分霊を勧請したことにより鶴見神社が始まったとされている。
 
それ以来、当社は八王子社と称したのであるが、鶴見神社と呼ばれるのは[[建久]]元年([[1190年]])、[[源頼朝]]が上洛の際、現在の[[静岡県]][[磐田市]]の鶴ケ池で千羽の鶴を捕らえ、すべての鶴の首に[[鎌倉幕府]]の証である金の短冊を付け、いっせいに天に向かって放った。「放生会」とう儀式である。[[平氏]]によって討たれた父や兄弟たちの弔いであった。父[[源義朝]]の果たせなかった[[武士]]による全国制覇という偉業を成し遂げた報告もあったのであろう。一斉に放された鶴は大空高く飛び、その鶴たちが舞い降りたったところが辻村であった。これらの諸伝承は、当地が[[源氏]]や[[北条氏]]にゆかりがあった土地であったことを物語っている。
 
首につけた金の短冊をつけた鶴たちの舞い降りた様は見事で、たちまち噂は近郷近在に広まり、多くの人々が鶴を一目見ようと詰め掛けたことから「鶴見」という地名ができたのであといわれている。それ以来、当社は[[摂津国]]や河内国の言葉で「八王子社」と呼びにくかったのか、「鶴見の宮さん」と愛称を込めて呼ばれるようになったために、[[1952年]]([[昭和]]27年)、正式に鶴見神社と社名を変更した。古来より厄除・病気平癒・長寿の神として信仰を集めていった
 
[[江戸時代]]の[[享保]]年間([[1716年]] - [[1736年]])に本殿と拝殿が再建されている。[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1764年]])に萱葺を瓦葺に改めている。
== 境内 ==
社殿は[[1890年]]([[明治]]23年)桧皮葦流造に改造し、[[1969年]](昭和44年)に本殿、幣殿、拝殿を[[春日造]]の[[鉄筋コンクリート造]]に改築、[[2011年]]([[平成]]23年)10月、境内地、社殿、末社の大改修を行った。
 
[[1872年]]([[明治]]5年)、[[村社]]に列せられる。[[1890年]](明治23年)社殿を桧皮葦[[流造]]に改造する。
== 末社 ==
 
*[[住吉神社]]―祭神:[[住吉三神|住吉大神]]
[[1952年]]([[昭和]]27年)、正式に鶴見神社と社名が変更された。
*九鬼[[稲荷社]]-祭神:摂津国[[三田藩]]主和泉守[[九鬼隆律]](くきたかのり)。[[大坂]]の[[江戸幕府|幕府]]領の検地を隆律が担当した[[延宝]]年間([[1673年]]~[[1680年]])に、下辻村の見地があった。当時、当地の[[石高]]は800石余りあったが低地のため度々の水害にあい、平年作は10年に1度という酷い状況であった。検地に立ち会った九鬼隆律はこれを哀れみ、石高を100石ほど減免した。隆律が[[貞享]]3年([[1686年]])6月6日に30歳で死去すると、[[元禄]]年間([[1688年]]~[[1704年]])に下辻村の農民はこのことを知り、恩人である九鬼隆律を祭神として祭祀するようになった。
 
[[File:Kukiinari.JPG|thumb|right|250px|九鬼稲荷社]]
社殿は[[1890年]]([[明治]]23年)桧皮葦流造に改造し、[[1969年]](昭和44年)本殿、幣殿、拝殿を[[春日造]]の[[鉄筋コンクリート造]]に改築、とした。[[2011年]]([[平成]]23年)10月、境内地、社殿、末社の大改修を行った。
*[[祖霊社]]―祭神:[[大東亜戦争]]の戦没者
 
古来より厄除・病気平癒・長寿の神として信仰を集めている。また、当社では「お宮のはり・灸・ほねつぎ」が行われている。
 
== 祭神 ==
* 主祭神 - [[大山咋神]][[荒魂・和魂|荒魂]](おおやまぐひのかみあらみたま)。ご祭神は日吉大社の牛尾宮([[八王子山]]に祭祀されている)に祀られている神である。
* 相殿神 - [[八王子権現|八王子]]([[アメノオシホミミ|正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命]]・[[アメノホヒ|天之菩卑命]]・[[アマツヒコネ|天津日子根命]]・[[イクツヒコネ|活津日子根命]]・[[クマノクスビ|熊野久須毘命]]・[[タキリビメ|多紀理比賣命]]・[[イチキシマヒメ|市寸島比賣命]]・[[タキツヒメ|田寸島比賣命]])。八方の各方位を司るとされる。
 
== 境内 ==
* 本殿 - [[1969年]]([[昭和]]44年)再建。
* 幣殿 - 1969年(昭和44年)再建。
* 拝殿 - 1969年(昭和44年)再建。
* [[住吉神社]] - 祭神:[[住吉三神|住吉大神]]
* 九鬼[[稲荷社]] - 祭神:摂津国[[トヨウケビメ|豊受大神]]、[[三田藩]]主和泉守[[九鬼隆律]](くきたかのり)。[[大坂]]の[[江戸幕府|幕府]]領の検地を九鬼和泉守隆律が担当した[[延宝]]年間([[1673年]] - [[1680年]])に、下辻村の見地があった。当時、当地の[[石高]]は800石余りあったが低地のため度々の水害にあい、平年作は10年に1度という酷い状況であった。検地に立ち会った九鬼隆律はこれを哀れみ、石高を100石ほど減免した。隆律が[[貞享]]3年([[1686年]])6月6日に30歳で死去すると、[[元禄]]年間([[1688年]] - [[1704年]])に下辻村の農民はこのことを知り、恩人である九鬼隆律を祭神として祭祀するようになった。
[[File:Kukiinari.JPG|thumb|right|250px|九鬼稲荷など]]
* 祖霊社 - 祭神:[[大東亜戦争]]の護国の英霊、当神社の関係者、氏子崇敬者の物故者。
* 社務所
* 鶴八社 - 祭神:鶴八大明神
* 福龍社 - 祭神:八大龍王社
* 夫婦楠 - 保存樹。
 
== 主な祭事 ==
[[File:Danjiri 1.JPG|thumb|right|250px|夏祭りだんじり風景]]
[[File:Danjiri 2.JPG|thumb|right|250px|夏祭りだんじり風景]]
* 歳旦祭、 1月1日
* [[節分]]際 、2月節分日
* 祈年祭、 2月17日
* 九鬼稲荷祭 、5月5日
* [[大祓祭]] 、6月30日
* 夏祭第3土日
* 乞巧奠(きっこうでん)、旧暦の[[七夕]]日
* 秋祭(大祭)、第3土日
* [[新嘗祭]]、11月23日
 
鶴見神社には東・西の2台の「地車」(だんじり)がある。[[1887年]](明治20年)、有名な地車大工の「住吉・大佐事」川崎仙之助、宗吉氏に地車を発注し地車を購入した。
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== 現地情報 ==
;所在地
* [[大阪府]][[大阪市]][[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]鶴見3-丁目13-76
 
;交通アクセス