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| 出生日 = [[武徳]]元年([[618年]])
| 生地 = [[長安]]承乾殿
| 死亡日 = [[貞観 (唐)|貞観]]19年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]<br>([[645年]][[2月8日]])<br>(享年28)
| 没地 = 黔州
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| 役職 =
}}
'''李 承乾'''(り しょうけん、[[武徳]]元年([[618年]] - [[645年]][[2月8日]]([[貞観 (唐)|貞観]]19年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[645年]][[2月8日]]))は、[[中国]]の[[唐]]の太宗[[太宗 (唐)|李世民]]の長男。[[字]]は高明。[[皇太子]]に立てられたが、廃位された。
 
== 経歴 ==
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幼いころは聡明で、政務の裁決を任されても基本を外さず、太宗の行幸のおりには監国をつとめた。しかし成長すると、遊興を好んで素行は乱れた。太宗は[[孔穎達]]・[[令狐徳棻]]・[[于志寧]]・張玄素・趙弘智・王仁表・崔知機らを選んで承乾を教導させたが、承乾は改悛しようとしなかった。承乾は病のため足が悪く、素行も悪かったので、廃位されるのを恐れて、弟の魏王[[李泰]]を敵視した。
 
また称心という美男を寵愛していた。皇位継承者として相応しくないとして[[642年]]、李世民は称心を殺した。対して承乾は封師進・張師政・紇干承基らに命じて魏王李泰の謀殺をはかり、失敗した。そこで漢王[[李元昌]]・[[侯君集]]・李安儼・趙節・杜荷らとともに兵をもって西宮に入ろうとしたが、紇干承基が斉王[[李祐]]の乱に連座して逮捕されると、計画は漏れた。[[643年]]、承乾は廃位されて庶人に落とされ、[[黔州]]に流され、[[645年]]に亡くなった。

没後は国公の礼で葬られ、諡を愍といった。
 
子に李象・李厥がいた。李象は[[懐州]]別駕となり、李厥は[[鄂州]]別駕となった。