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'''レイモン(レモン)・ポアンカレ'''('''ポワンカレ'''、'''Raymond Poincaré'''、[[1860年]][[8月20日]] – [[1934年]][[10月15日]])は、[[フランス第三共和政]]の[[政治家]]、[[弁護士]]。通算5期に渡り[[フランスの首相|首相]]となり、[[1913年]]から[[1920年]]まで[[フランスの大統領|大統領]]を務めた。
 
== 生涯 ==
[[ムーズ県]][[バル=ル=デュック]]出身。[[リセ・ルイ=ル=グラン]]を経て[[パリ大学]]法学部で学ぶ<!--当人フランス語版より-->。弁護士を経て、[[1887年]]から[[1903年]]まで[[下院議員]]。この間、一般教育・芸術大臣や蔵相など[[閣僚]]を歴任した。[[1903年]]には上院議員に選出されている。[[1909年]][[アカデミー・フランセーズ]]会員に選ばれる。[[1912年]]に初めて首相となる。首相としてはフランス国内における[[普仏戦争]]後の財政的逼迫を一気に打開したい財界からのロビー活動と対独復讐政策を求める世論に押され対独包囲網の構築、なかんずく[[イギリス]]および[[ロシア帝国]]([[ロシア革命]]後は[[ソビエト連邦]])との軍事的提携に動いた。[[1913年]][[共和国大統領 (フランス)|共和国大統領]]に就任。[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発するとフランス国内に「神聖連合」と呼ばれる挙国一致体制を成立させ、フランスは連合国側のひとつとして戦勝国となる。[[1922年]]再度首相となり、蔵相を兼務して財政危機の収拾にあたり、[[フランス・フラン|フラン]]の価格安定策として[[預金供託金庫|独立償却金庫]]を創設した。一方で地政学上半永久的な封じ込め政策を行わんがため対独強硬派としてドイツ賠償委員会委員長に就任。ドイツに対して戦争責任の一切を負わせる厳罰主義に徹した。[[1924年]][[4月9日]]の[[ドーズ案]]採択時も最後まで反対するも[[ラムゼイ・マクドナルド]]、[[ベニート・ムッソリーニ]]、[[カルビン・クーリッジ]]の圧力で方向転換。同年[[5月11日]]の仏国会選挙において経済政策の失敗と[[ルール地方]][[ルール占領|占領]]が招いた国際的孤立で支持を失いポアンカレ所属の民主同盟(Alliance démocratique)は敗退。これを機にフランスはドイツとの宥和政策に転換し、ドーズ案に引き続く[[ヤング案]]でドイツの戦後補償は実質的に完了するが、ひとたび苛烈な戦後処理を行われたドイツ国民の感情は燻り、これが[[ナチス]]台頭ひいては[[第二次世界大戦]]の遠因となった。[[1929年]]に政界を引退し『回顧録』を執筆。[[1934年]][[パリ]]で死去。