「佐伯好郎」の版間の差分

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=== 戦後の活動 ===
[[第二次世界大戦]]末期の[[1944年]]より戦災を避けて故郷・[[廿日市市|廿日市町]]に[[疎開]]していた佐伯は、戦後の[[1947年]]1月、既に老齢(76歳)に達していたにも関わらず同町の町長に選ばれ、[[1956年]]9月まで在任した<ref>ただし当時の廿日市町は、1956年9月の新立合併で発足し、現在の廿日市市の直接の前身となった(2代目)廿日市町ではなく、それ以前の(初代)廿日市町であり、その境域も現在の廿日市地区を中心とするごく限られた地域であり、佐伯はその(初代)廿日市町の最後の町長であっ。</ref>。同時期には、広島在住の文化人により同じく1947年9月に結成された「[[日本文化平和協会]]」の副会長に選ばれ<ref>宇吹暁 『ヒロシマ戦後史;被爆体験はどう受けとめられてきたか』 [[岩波書店]]、[[2014年]]、p.39。</ref>、[[広島市への原子爆弾投下|原爆投下]]により灰燼に帰した近隣の[[広島市]]の再建についていくつかの助言を行った。
 
その一方で[[1952年]]頃[[犬塚惟重]]を会長として結成され[[偽史]]関係者が集った「[[日猶懇話会]]<ref>日猶=日本・ユダヤ</ref>」に顧問として参加するなど、多彩な活動を展開し、最晩年の[[1962年]]10月には[[日本人]]として3人目の「早稲田大学名誉博士」となった。