「山下徳夫」の版間の差分

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父、徳次郎は[[1926年]]に炭鉱向け材木店(現・ヤマシタ)を創業。大学卒業後の[[1947年]]に[[佐賀県議会]]議員に初当選。[[1949年]]に父の家業である山下徳次郎商店の[[代表取締役]]に就任する。その後、日本杭木協会理事や全国木材協会理事、佐賀県木材協会会長を歴任し佐賀県議会にて議員4期・議長2選を経て、[[1969年]]、旧[[佐賀県全県区]]から[[第32回衆議院議員総選挙]]に立候補し、初当選(当選同期に[[小沢一郎]]・[[羽田孜]]・[[梶山静六]]・[[奥田敬和]]・[[林義郎]]・[[渡部恒三]]・[[綿貫民輔]]・[[塩崎潤]]・[[森喜朗]]・[[村田敬次郎]]・[[松永光]]・[[江藤隆美]]・[[中山正暉]]・[[浜田幸一]]など)。連続当選は10回。自民党内では最小派閥の[[番町政策研究所|三木→河本派]]に所属した。
 
[[第2次中曽根内閣]]では[[運輸大臣]]として初入閣。運輸相在任中の[[1985年]][[8月12日]]、[[三光汽船]]が翌日[[会社更生法]]の適用を申請することを受けて佐賀から急遽帰京し担当官庁の長として同社の対応をするために[[福岡空港|福岡]]発[[東京国際空港|羽田]]行[[日本航空]]366便に搭乗し、17時過ぎに羽田に到着した。その機体JA8119番機は羽田到着後同123便として18時過ぎに[[大阪国際空港|大阪]]へ向かったが、その途上で単独機としては史上最悪の[[日本航空123便墜落事故]]が起きる{{efn|山下は1972年の[[日本航空ボンベイ空港誤認着陸事故]]にも遭遇して負傷し、1982年の[[日本航空350便墜落事故]]でも所用で1便遅れたことで搭乗を回避している<ref name=":0" /><ref>{{国会会議録検索システム|110213830X00319850816|accessdate=2021-04-19|name=第102回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第3号 昭和60年8月16日}}</ref>。}}<ref>{{Cite web|title=日航広報部員の御巣鷹:時事ドットコム|url=https://www.jiji.com/jc/v4?id=20120810_jal123_kouhou0001|website=時事ドットコム|accessdate=2021-04-15}}</ref><ref name=":0" />。事故後所管大臣として陣頭指揮にあたった山下は、生還した女児の123便搭乗券のコピーを持ち歩き、機会があれば知人に贈っていたという<ref name=":0">{{Cite web|title=日航機事故から35年|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/560143|website=佐賀新聞LiVE|accessdate=2021-04-19|date=2020-08-12}}</ref>。
 
[[第3次中曽根内閣]]では[[総務庁長官]]に就任する。[[第1次海部内閣]]で[[内閣官房長官]]に就任する。河本派の情報通で[[海部俊樹]]とのフロコミュニケーションを通じての「ツーといえばカーと仲だった」という<ref name="海部回顧録">[[海部俊樹]]『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(2010)p.50</ref>。40歳も年下の元愛人に口止め料を渡したという買春スキャンダルが発覚して在職期間16日間で辞任した。氏の手帳には日航客室乗務員の名前がずらりと書き込まれ、それを見た記者が客室乗務員の自宅に押しかけて大騒ぎになったこともあった<ref>杉江弘著『JAL123墜落事件』126頁</ref>。その後、[[宮澤内閣]]の[[厚生大臣]]に就任する。最小派閥ながら閣僚ポストに恵まれたのは、[[金丸信]]と親交が深く、[[平成研究会|経世会]]との連絡役を務めていたからという側面もあった。[[2000年]]に政界引退、自民党佐賀県連で顧問を務める。また、[[1988年]]より[[2003年]]まで[[学校法人専修大学]][[理事長]]も務めた。