「市川團十郎 (9代目)」の版間の差分

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== 飛躍の時代==
[[File:Danjūrō Ichikawa IX as Benkei in Kanjin-chō (1894).jpg|thumb|175px|『勧進帳』の弁慶]]
市川宗家に戻って九代目團十郎を襲名した後も、團十郎はしばらくの間は河原崎座との縁が切れなかった。河原崎座はその名を改め新堀座となっていたが、義理の甥の八代目権之助に座元の任は重く、すぐに経営難に陥って團十郎に泣きついたのである。團十郎は結局新堀座の座元を兼ねて借財を背負わなければならなかった。だが、[[1876年]](明治9年)に[[守田勘彌 (12代目)|十二代目 守田勘彌]]に招かれて[[新富座]]に出勤した頃からようやく芸が伸び始める。負債<ref>[{{NDLDC|1920337/163}} 「団十郎大借金身代限願ひ出」東京さきがけ明治10年8月11日『新聞集成明治編年史. 第三卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>の埋め合わせために地方回りをすることもたびたびあった。[[1877年]](明治10年)に西南戦争が起こるとそれを題材とした『西南雲晴朝東風』で西郷隆盛を演じ、大当たりした。
 
[[文明開化]]の時代にあって、明治19年に学者や政治家が集まった演劇改良会による[[演劇改良運動]]が起こり、従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志し、団十郎も学術関係者や文化人と組んで[[時代考証]]を重視した演劇に取り組んだ。海外の演劇事情を知るため、欧米視察も考えた<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920367/284 団十郎洋行を希望 演劇改良問題を気に病み]『新聞集成明治編年史』6巻、林泉社、1936-1940</ref>。これがやがて「[[活歴]]」と呼ばれるようになる一連の演目を世に出すことになった。しかし観客の支持は得られず、興行的には散々だった。それ以降は古典作品の型の整備に取り組んだ。