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17隻の通告済みの陸軍病院船の中で終戦時に残存したのは、この項の主役である「橘丸」だけであり<ref group="注釈">この17隻のほか、「[[有馬山丸]]」(三井船舶、8,696トン)と「[[和浦丸]]」(三菱汽船、6,804トン)が1945年に陸軍病院船に転じ連合国側に通告されている([[#和浦丸]])。「和浦丸」は終戦間際に[[釜山港]]で触雷して放棄されたが([[#駒宮(1)]]p.121)、「有馬山丸」は残存した([[#野間]]pp.592-593)。</ref>、他はすべて連合国軍による攻撃、または触雷で失われた<ref group="注釈">例えば、「三笠丸」(東亜海運、3,143トン)は[[多号作戦]]で沈没している。</ref>。「輸送船の機能しかなかった」という一文に関しても、実際に陸軍病院船に関しては病院船というより「還送患者輸送船」といった感じで病院船を運用していた節があり、また患者のいない往航には武装兵を運ぶことも普通におこなわれている<ref>[[#還送患者]]</ref>。もっとも、海軍病院船がそういう使われ方をしなかった、というわけではない<ref>[[#朝日丸(1)]]、[[#朝日丸(2)]]</ref>。
 
上記のように連合国軍による通告済み病院船への攻撃が多数行われたものの、それに対して日本軍は条約を遵守して通告済み病院船に対して全く手出しをしなかったのかといえば「否」で、[[スラバヤ沖海戦]]直前の1942年2月26日の[[オランダ]]病院船「[[オプテンノール (船)|オプテンノール]]」(6,076トン)の抑留と、昭和18年5月14日の[[伊号第百七十七潜水艦|伊号第一七七潜水艦(伊177)]]による[[オーストラリア]]病院船「{{仮リンク|セントー (病院船)|en|AHS Centaur|label=セントー}}」(3,222トン)撃沈<ref>[[#木俣潜]]p.440</ref>が、日本軍が病院船に手出しした例として挙げられる。前者は味方艦隊の行動海域を航行していることが「怪しい」<ref name="b">[[#原2011]]p.14</ref>と判断され、[[臨検]]の結果「とがむべき点は認められなかった」<ref name="b"/>ものの、その後の航路指示に従わなかったことから結局抑留・接収され、日本側が使用することとなった<ref group="注釈">後に「天応丸」、次いで「第二氷川丸」と命名され海軍病院船として行動。1945年8月18日に沈没([[#特設原簿]]p.113,118)</ref>。オランダ政府はこれに抗議し、日本側の病院船の不承認をちらつかせたりもした<ref name="bb">[[#オプテンノート]]</ref>。後者は伊177が「セントー」を「病院船とは気付いていなかったらしい」<ref name="c">[[#木俣潜]]p.441</ref>が、生存者は「日本の病院船への攻撃に対する報復」と受け止めていた<ref name="c"/>。それほどに、連合国側の通告済み病院船への攻撃が多発しており、連合国側の将兵が皆その事実を知っていたことを窺わせる。あえて[[太平洋戦争]]時以前まで遡って例を挙げるならば、[[日露戦争]]での[[日本海海戦]]で[[ロシア海軍#ロシア帝国海軍|ロシア帝国海軍]]の病院船「オリョール」(4,500トン)が抑留され、その後の捕獲審判において条約上禁止される軍事目的に使用されたことを理由に没収されている。この際は病院船「コストローマ」も同時に抑留されているが、こちらはそのまま解放されている。病院船の臨検自体は[[交戦権]]として認められるものであり、さらに病院船の航路を指示したり、特に必要な場合には抑留することも条約上で認められた行為である<ref group="注釈">日露戦争当時の適用法規として、[http://www.icrc.org/ihl.nsf/FULL/155?OpenDocument 1864年2月2日ジュネーブ条約の原則を海戦に応用する条約] 第4条。以後の各条約でも基本的に同様の内容となっている。</ref>。これにより、オプテンノートの事例はオプテンノート側に非があり、日本軍側が非を働いたとは言い難いものとなるが、旧日本軍はこれを違法と判断されることを極度に恐れていた節が窺われる。詳しくは「[[オプテンノート]]」の項目参照。
 
1945年(昭和20年)に入ると、日本の何隻かの病院船の行く手行く所で水上艦艇による臨検(臨検行為は条約上認められている)および、航空機による威嚇飛行(条約違反)が繰り返されるようになる。1945年3月25日、[[基隆市|基隆]]に停泊中の陸軍病院船「ばいかる丸」(東亜海運、5,243トン)は、[[大本営]]命令により{{仮リンク|アパリ|en|Aparri, Cagayan}}に向かう<ref name="d">[[#駒宮(2)]]p.365</ref>。2日後にアパリに到着するも昼夜分かたぬアメリカ軍機の威嚇飛行を受け、バドリナオ岬に移動しても状況は変わらず、「ばいかる丸」はバドリナオ沖から去って3月30日に基隆に帰投した<ref name="d"/>。「ばいかる丸」のこの時の任務が何であったかについて駒宮真七郎は、「患者収容に見せかけ、特命の人員を[[台湾]]に連れ戻す」<ref name="d"/>のが目的であり、その「特命の人員」とは「「翼を失った戦闘機の搭乗員」若しくは「特攻隊員」との見方が本命」<ref name="d"/>と駒宮は推測している。7月には、海軍病院船「[[高砂丸]]」([[大阪商船]]、9,347トン)が船倉に食糧を搭載して、当時孤立無援の状態だった[[ウェーク島]]に向かったが、ウェーク島到着前日にアメリカ海軍駆逐艦「[[:en:USS Murray (DD-576)|マリー]]」 (''USS Murray, DD-576'') の臨検を受け<ref>{{Cite web|url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1945.html|title=The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VII: 1945|publisher=HyperWar|language=英語|accessdate=2011-10-01}}</ref>、食糧にチェックが入った<ref name="e">[[#木俣残存]]p.358</ref>。これにより、軍用物資でもある食糧の陸揚げが出来なくなり、7月4日にウェーク島に入泊した高砂丸は患者輸送しか行えなかった<ref name="e"/>。その患者を乗せる際にも上空からの監視があり、出港後にもまた臨検された<ref name="e"/>。その「高砂丸」には燃料輸送用のタンクが設置される計画もあったが、これは「良識派の意見が通」って工事直前に中止になった<ref name="e"/>。「高砂丸」や、国際法をたてに軍部からの要請を再三にわたって退けた海軍病院船「[[氷川丸]]」(日本郵船、11,622トン)<ref>[[#郵船戦時]]p.552</ref>のように良心が邪心を退けたために、結果的に戦禍から逃れることができた例もあったが、臨検や威嚇飛行の段階に至らなくても、日本軍には国際法によって病院船が禁じられている武器弾薬や将兵の輸送行為を<ref name="f">[[#西村]]p.11</ref>、連合国側に発覚することなく行った事例が実際に存在する。海軍病院船「[[朝日丸]]」(日本郵船、9,326トン)は[[戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」、「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」宛の弾薬560発を輸送し<ref>[[#朝日丸(2)]]p.24,35</ref>、「橘丸」も拿捕前に、[[アンダマン諸島]]および[[ニコバル諸島]]から傷病兵に健全兵を「混ぜて」[[スラバヤ]]に輸送した疑惑がある<ref name="f"/>。