「フリードリヒ・エーベルト」の版間の差分

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戦争の勝利の見込みが薄くなると、戦争に反対するハーゼや[[カール・カウツキー]]をはじめとする左派は1916年に離党あるいは除名された。彼らは翌年4月に[[アメリカ合衆国]]が[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]に参戦すると、[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)を結成した。またローザ・ルクセンブルクや[[カール・リープクネヒト]]ら急進左派は[[スパルタクス団]]を結成して分離した。エーベルトはハーゼの議会議員団長の職を引き継ぎ、シャイデマンが共同党首になった。1918年に敗色が濃厚になると、10月にエーベルトやSPDの他のメンバーを含めた、[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]による新内閣が組閣された。
 
[[キール (ドイツ)|キール]]で水兵の反乱が起きて[[ドイツ革命]]が勃発し、その波がドイツ各地に広まると、宰相マクシミリアンは11月9日に辞職して独断で皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の退位を発表し、同様にエーベルトを自分の後任のドイツ国臨時宰相に指名した。同日ベルリンの[[国会議事堂 (ドイツ)|議事堂]]でフィリップ・シャイデマンが、帝政の終了と共和国発足を宣言した。翌日発足したSPDとUSPDによる[[臨時政府]](人民代表委員会([[:en:Council of the People's Deputies|en]]))は、完全にエーベルトの主導権下に入り、エーベルトはハーゼと共に委員長に就任した<ref>エーベルトとハーゼは同格扱いだったが、建前上はマクシミリアン・フォン・バーデンから法的根拠がないまま首相に指名されていたエーベルトが首相格とされ、ハーゼは副首相格だった。ただしドイツ語版ウィキペディアなど、ハーゼをエーベルトと並ぶ暫定首相扱いする場合もある。</ref>。さらにエーベルトは軍のトップとなった[[ヴィルヘルム・グレーナー]]とも交渉して協力を取り付けた。しかし本来エーベルトは君主制の支持者であり、この地位を不承不承に引き受けていた。
[[Image:Ebert Fehrenbach.jpg|thumb|[[コンスタンティン・フェーレンバッハ|フェーレンバッハ]]首相(中央右)と'''エーベルト'''(中央左)(1920年)]]