「趙爾豊」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
22行目:
 
== 事跡 ==
[[1875年]]([[光緒]]元年)、[[郷試]]を受けたが及第せず、謄録(浄書係の旧称)に任じられた。その後、[[山西省]]で官吏としての経歴を開始したが、[[1888年]](光緒14年)、当時山西省に赴任していた[[錫良]](シリャン)に見出され、以後、錫良の引き立てにより各職を歴任する。特に、[[1901年]](光緒27年)からは、[[河道総督]]となった錫良の下で、趙爾豊が河川工事の責任者を務め、実績を積んでいる。
 
[[1903年]](光緒29年)、[[四川総督]]となった錫良に随従して趙爾豊も四川入りし、会党や[[土司]]の反乱鎮圧に従事した。[[1906年]](光緒32年)、清朝から督弁川滇辺務大臣に任命される。そして[[1907年]](光緒33年)、錫良の後任として、護理四川総督に任じられた。[[1908年]](光緒34年)5月、駐蔵大臣兼領辺務大臣に任じられ、さらに正式に四川総督に就任した。[[1909年]]([[宣統]]元年)には、軍を率いてチベット入りしたが、この年に駐蔵大臣等を辞任し、川滇辺務大臣に専任となる。
41行目:
|-
! [[File:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|25px]] [[清]]
{{先代次代|[[四川総督]]|<small>[[1907年]]</small>|[[錫良]](シリャン)|[[趙爾巽]]}}
{{先代次代|四川総督|<small>[[1911年]]</small>|[[趙爾巽]]| - }}
|}