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[[File:Prince Duan (Tuan).jpg|thumb|right|載漪]]
'''愛新覚羅 載漪'''(あいしんかくら さいい、アイシンギョロ・ヅァイイ、[[満州語]]:{{mongol|ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ<br>ᡯᠠᡞ ᡞ}}、転写:aisin-gioro dzai-i、[[1856年]] - [[1922年]])は、[[清]]の皇族。
 
[[道光帝]]の第五子惇親王[[愛新覚羅奕ソウ|奕誴]]の子。瑞郡王[[愛新覚羅奕誌|奕誌]]([[嘉慶帝]]の第四子瑞親王[[愛新覚羅綿忻|綿忻]]の子)の跡を継ぎ、38歳で端郡王となった。西太后の甥で[[光緒帝]]のいとこにあたる。
 
[[戊戌の政変]]後、載漪の次男の[[愛新覚羅溥儁|溥儁]]が西太后によって大阿哥(皇太子)に擁立されたが、外国公使の支持を得ることはできなかった。西太后は反対を押し切って[[1899年]]4月に溥儁を即位させ、[[保慶]]と改元し、光緒帝を廃位した。しかし各方面から反対がおこり、西太后は光緒帝を廃位する計画を断念せざるを得なかった。
 
[[義和団の乱]]では、主戦派で弟の輔国公[[愛新覚羅載瀾|載瀾]]とともに積極的に[[義和団]]を利用することを主張した。連合軍が北京に近づくと西太后とともに西安に向かった。義和団鎮圧後、8ヶ[[八カ国連合軍]]から戦犯に指名され、死刑を要求されたが王族だったため[[1902年]]に朝廷は載漪一家を[[新疆省]]に追放処分とした。移動途中のモンゴルに留まることになり、当初は友人や西太后の援助で裕福に生活できたが有力者と不和になり、中華民国建国後、[[甘州]]に移って医師の長男の溥僎の収入と北京政府からの生活費の支給で暮らした。[[1920年]]に長男の溥僎が亡くなると葬儀と埋葬のために北京に行ったが、1922年に亡くなった。享年66。
 
溥僎の孫娘に高名な画家の[[愛新覚羅恒懿]]がおり、著書「世紀風雪 幻のラストエンペラー」で載漪の追放とその後について記している。
 
== 関連項目 ==