「利用者:Wadakuramon/sandbox/02」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
1行目:
'''公益財団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会''' (Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens) (通称:'''O'''st'''a'''sien'''g'''esellschaft=東洋文化協会、オーアーゲー、OAG) は、科学者、実業家、外交官によって1873年東京に設立された組織である<ref>[https://oag.jp/jp/ OAG|OAGについて] 2021年4月30日閲覧。</ref>。その1年前に設立された日本アジア協会と共に、現在も活動している日本にある海外学術協会としては最も古い。
 
== 1873年-1914年 ==
OAGの創設については次のように語られている<ref>''Mitteilungen der OAG'' Band 1, Heft 巻第1, Seite p.1</ref>:
 
「1873年3月22日<ref group="注釈">同じ日に世界一周の行程でドイツのベルリンを訪れていた岩倉使節団の一行は、皇帝の誕生日祝典に参列した。 (田中彰. 岩倉使節団『米欧回覧実記』. 岩波書店 2002、p159)</ref>、皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]の誕生日に、江戸と横浜に住んでいたドイツ人たちはドイツ東洋文化協会を設立するために集まった。協会の目的は、個人の努力のための共通センターを作ることで、それにより一方では研究を活発にし、他方ではその結果をより多くの人たちが利用できるようにする事だった。」
10行目:
OAG会報 (Mitt(h)eilungen der OAG)<ref>[https://ci.nii.ac.jp/ncid/AA00286430#anc-library CiNii]</ref> は自然科学者、医師、弁護士からの投稿が主であったが、民俗学に興味を持つ読者も多かった。彼らは会員や日本人から贈られた品々を展示する小さな博物館として、[[増上寺]]の隣の寺の部屋を借りていた。しかし1878年には資金の面から中止され、日本に独自の博物館が創設されたこともあり、博物館は廃止された。コレクションはライプチヒ民族博物館に寄贈されたが、これはプロイセン以外の博物館であることをアピールする狙いもあった。1885年に協会が移転し、集会所として建物を持つようになると、社交的な交流の機会も増えてきた。
 
協会での会話はドイツ語だったので、日本人の会員は登録簿にすこしずつしか増えていないが、そこには[[桂太郎]]首相や外交官の[[青木周蔵]]もいた。1874年7月にB. Miyakeが日本の産科学の論文を発表した。また名誉会員で医師の[[青山胤通]] (1859-1917) の記念碑が、麴町の敷地に建てられている<ref>Abb. in ''Geschichte der Gesellschaft'', 1923, Sp. 14掲載の図</ref>。
 
1900年以降は、重点が人文科学と社会科学に移行した。さらに1907年からはドイツ大使が会長に就かず、名誉会長の地位に移行した。大使館との連携はその後も継続された。例えばDietlich von Klitzing (1940年没) は妻と共に、1912年にインドネシアからやってきて東京を訪問し、Graf von Rex大使からOAGの存在を聞かされた。Klitzingsはその際に15,000マルクを寄付し、さらに寄付を募った結果、新しい会館の建設費用を準備することができた。1914年に大使館の隣接地が獲得され、大きな建物の計画が出来上がった。しかしその時に[[第一次世界大戦]]が勃発した。
31行目:
 
== 1914年–1945年 ==
第一次大戦が開戦したが、土地の購入と既存の建物の使用は維持された。協会の活動はほとんど停止されたが<ref group="注釈">ドイツ軍の戦争捕虜は図書館を利用できた。</ref>、1919年に建物が敵国の資産として接収されるまでは、継続して使うことができた。
 
1920年に、Solf大使と[[後藤新平]]伯爵の尽力で資産は返還された。協会の活動は再開されたが、OAG会報の第14巻から第16巻は、それまでの6年間の空白を埋めるのに苦労したことを物語っている。それでも1923年には建物を拡張し、貴重な図書室のための耐火建築を設けることができた。お雇い外国人の制度はとっくに終了していたが、優秀なドイツ人は日本の大学に「普通」の地位を得てOAGの活動に参加した。1933年以降OAGは、ドイツの他の海外組織と同様に、ナチスに巻き込まれていった。第二次世界大戦の空襲により、協会の建物はついに破壊されてしまった。
 
== 1945年以降 ==
終戦後、資産は日本側に保持された。多くのドイツ人が本国へ送還され、1945年 (ないし1948年) から1951年までの間、OAGの活動は停止された<ref group="注釈">この時期にハンブルグでOAG (ドイツ東洋文化研究協会) が設立され、1926年に東京で創刊された機関誌『OAGニュース』(NOAG) を継承し、現在も活動を続けている。</ref>.
 
1950年に資産が返還されると、それは売却され、赤坂に狭い土地を購入し、協会の新しい集会所と図書室が建てられ、1956年3月21日に落成された。1977年に[[ゲーテ・インスティテュート]]のための安価な施設を探していた連邦共和国が、OAGと協定を結んだ。それによりOAGは自由に使える新しい建物の建築資金を得ることができ、1階から3階は連邦政府が使った。OAGは4階に事務所と図書室、そして広い集会室を借りることができた。この「OAGハウス/ドイツ文化会館」は1979年から活動を開始した。OAG創立期の学術的独占はもはや過去のものとなったが、民間の学術研究機関としてOAGは日本を理解する上で重要な役割を果たしている。
102行目:
{{Reflist}}
 
 
MOAG Band 1, Heft 1, Seite 1
Abb. in Geschichte der Gesellschaft, 1923, S. 14
Deutsche Kriegsgefangene konnten die Bibliothek nutzen.
Siehe Stadtteilkarte (kiriezu): Tōto shitaya ezu. Bei der Adresse handelt es sich nicht um einen Tempel, wie die Endung -dera vermuten lässt, sondern um einen Weg, an dem eine Reihe von Nebentempeln des Kan’ei-ji lagen. In der Meiji-Zeit fiel das Gelände an das Mombu-shō. Heute stehen dort das Nationalmuseum der Naturwissenschaften und das Nationalmuseum für westliche Kunst.
Archivlink (Memento des Originals vom 5. Februar 2007 im Internet Archive) i Info: Der Archivlink wurde automatisch eingesetzt und noch nicht geprüft. Bitte prüfe Original- und Archivlink gemäß Anleitung und entferne dann diesen Hinweis.