「パシフィック・レーシング」の版間の差分

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1995年は状況を打開すべく、破綻した[[チーム・ロータス|ロータス]]の名称権を買収して「'''パシフィック・チーム・ロータス'''」として参戦した。日本の[[東急グループ]]を率いる五島ファミリーが資本参加し、東京に「パシフィック・アクセス」なる事務所を設立してアジアのスポンサー獲得に動いた。<ref group="注">[[伊藤園]]などが交渉に応じ、スポンサーに付いていた。</ref>また、ガショーも自己資金を投入して共同オーナーになるなど体制強化を図ったが、相変わらずの資金難が続いた。
 
ドライバーラインナップ[[アンドレア・モンテルミーニ]]と[[ペドロ・ラミー]]の布陣。に決定し、ガショーは共同オーナーとしてマネージメントに専念する意向で、開幕前には「今はチームのマネージメントに全力を注ぐことがボクのモチベーション」と語っていた。しかし、開幕直前になってラミーが[[ティレル]]との二重契約未遂でシートを失い、さらに結局スポンサーを持ち込める有能なドライバーが見つからなかったため、序盤戦と終盤戦ではガショーが自らステアリングを握ることとなった。マシンは[[フランク・コパック]]による吊り下げウイングを廃止したオリジナルシャシーに、[[フォード・コスワース・EDエンジン|フォードEDエンジン]]を搭載したPR02を登場させた。
 
参戦台数の減少により予選落ちがなくなり、全戦で2台揃って決勝に進んだ。開幕戦でモンテルミニが完走するなど、前年からある程度の進化は見せたが入賞はできず、シーズン途中ではガショーに変わってスポンサーマネーを持ち込んだ[[ジョバンニ・ラバッジ]]や[[ジャン・デニ・デレトラーズ]]を起用。とドライバーが次々に交代し、[[パシフィックグランプリ (4輪)|パシフィックGP]]と[[日本グランプリ (4輪)|1995年日本GP]]では日本の若手有望株の一人であった[[山本勝巳 (レーサー)|山本勝巳]]を起用しようとするも、[[スーパーライセンス]]は発給されず断念した。第9戦[[1995年ドイツグランプリ|ドイツGP]]のモンテルミーニと最終戦[[1995年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]でガショーが8位で完走したのが最高成績で、結局この年いっぱいでF1を撤退した。
 
=== その後 ===